-
記事
-
チャンネル
-
地域
-
季節
-
タグ
記事
-
動画記事 3:26
100年前の日本人の服装、カラー化高画質動画で見る大正時代のまばゆい笑顔
歴史 生活・ビジネス- 482 回再生
- YouTube
100年前の日本【大正時代】人々の笑顔の動画紹介 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、『笑顔のおっさんチャンネル A Smiley Daddy's Channel』さん制作の『100年前の日本人の笑顔【カラー化・高画質化】』という動画を紹介します。 動画で使用されているのは、約100年前の1914(大正3)~1918(大正7)年にかけて、製材機を日本に売りに来ていたアメリカ人、エルストナー・ヒルトン氏が撮影したものです。 この頃は、世界では第1次世界大戦が勃発しており戦火の中にありました。日本はその戦争景気に湧き、大正ロマンを謳歌している時代です。 そんな最中の日本人の笑顔の写真をカラー化・高画質化した動画をまずはご覧ください。 はじけるような笑顔を見せる大正時代の人々 画像引用 :YouTube screenshot 動画で登場するのは、第1次世界大戦と重なった時代を生きていた人々。今人気の「鬼滅の刃」の時代設定と同じ頃です。戦争の時代を生きる人々だからこそ、その笑顔はとても強くて印象深く感じますね。 動画には、様々な写真がカラー化されて映し出されます。次からは、その中でも印象的な写真を見ていきましょう。 普段着で作業や仕事をする大正時代の人々 画像引用 :YouTube screenshot わらじ作りや畑を耕す姿、米の収穫や籾の選別といった大正時代で働く男性や女性を映した写真の数々。野良着といわれる着物や、たすき掛けやもんぺをはくことで動きやすい服装に。 【動画】0:37~ わら三角帽子で畑を耕す男性 この時代に働く女性の多くは、手ぬぐいを頬被り(ほっかむり)にしていますね。 【動画】0:42~ 着物にほっかむりをした農家の女性 【動画】1:31~ たすき掛けをした着物で茶摘みのような姿の女性 【動画】2:43~ 籾の選別をする少女たち 夏には、半袖の着物を着ている姿が映しだされています。 【動画】2:25~ 夏の半袖の着物の女性、麦わら帽子と半ズボンの男性 花売りという写真には、2人の可愛い子供と花売りの男性が写っています。当時はこのように花を売り歩いていたこともわかりますね。 【動画】2:48~ 手押し車で売る花屋の男性と着物の子供たち 【動画】2:55~ カゴを持ち、着物にもんぺ姿の女性 行事やイベントでお出かけ着の女性や男性の服装 画像引用 :YouTube screenshot 新年の装いなどには、独身女性の正装とされる振袖姿、日本髪には髪飾りも。男性は羽織袴に山高帽やハンチングを被っています。 【動画】0:02~ 振袖姿の少女 【動画】0:07~ 新年の装い、振袖に日本髪の女性 【動画】0:48~ お茶会での女性の着物姿 何かを食べながら、楽しそうな若い女性たち。縦縞などの小紋の着物に、首元にはなぜか手ぬぐいをかけています。この頃の流行りなのでしょうか。 【動画】0:55~ 日本髪に髪飾り、首には手ぬぐいをかけたおシャレな女性たち 【動画】1:00~ 女性は髪飾り、男性は帽子が特徴のグループ写真 大正時代の子供の服装 画像引用 :YouTube screenshot いつの時代も子供の笑顔は素敵ですね。動画に登場する大正時代の子供たちの服装に注目してみましょう。 男の子は、絣の着物に草履をはいた姿が多く、着物を汚さないようにエプロン(前掛け)をしている子も。絣の着物や小紋でしょうか、着物と同柄の羽織りも着ている女の子も見られます。 【動画】0:15~ わらじ作りをする男性のそばに、絣の着物を着た女の子 【動画】0:21~ 男の子は着物にエプロン、女の子着物 【動画】1:13~ 仲良しの男の子たちの着物姿 【動画】1:26~ ツツジの前で着物姿の女の子 さまざまなシーンの服装、祭り・雨の日・夏・風呂 画像引用 :YouTube screenshot 雨の日の服装という写真は、当時の生活風景が分かる一枚。男性はこの時代でも蓑を使っていたことがわかります。 祭りで三味線を抱えて微笑む女性、片袖をぬいで少しくずして着物を着る姿が印象的です。解放感があるお祭りの雰囲気が伝わりますね。 【動画】1:19~ 三味線を持ち祭りに参加する女性 【動画】1:37~ 雨の日の服装、蓑を着る男性と傘をさす女性 【動画】2:13~ 夏の縁側で半袖の着物を着た女性 【動画】3:01~ 木桶風呂につかる女性 白黒の写真が美しい色彩でよみがえるカラー化技術 画像引用 :YouTube screenshot 動画内で紹介された写真は、白黒写真が使用されています。その白黒写真を、自然な発色の色彩写真に変換する技術によりカラー化されています。 このカラー化の技術は、早稲田大学理工学術院の石川博教授、飯塚里志研究院助教、シモセラ・エドガー研究院助教らの研究によって確立されました。この技術は、ディープラーニングと呼ばれるAI(人工知能)技術を応用したもので、対象の画像に自動着色を施すことでカラー化。白黒写真の他、様々な画像に自然な色付けが実現、彩色結果はユーザーのテストにおいて「約90%の色付け結果が自然である」という評価を受けているほどです。 これまでは、フィルムにカラー化を施したり、白黒写真に手作業で色をつけていたため、費用も決して安くはありませんでした。しかし現在は、この技術の開発により、インターネット上で無料配信されているアプリを利用し、白黒写真を撮影またはアップロードするだけでカラー化をすることが可能になっています。 100年前の日本人の服装と笑顔のまとめ 画像引用 :YouTube screenshot 100年前に撮影されたとは思えないほど美しい色彩が浮かび上がり、見る人の目を楽しませてくれます。カラー化技術は、古い写真を色鮮やかなものへと変換してくれる素晴らしい技術。古い家族写真や歴史的な写真も生き生きと蘇らせることができます。 100年前、大正時代を生きた日本人の笑顔がカラー化によって、まるで現代に生きる人々のかと錯覚するほど生き生きと写し出されています。カラーになると、服装の華やかさも増しますね。皆さんがお持ちの思い出の写真も、お手軽にカラー化することができるので、一度試してみてはいかがでしょうか。 -
動画記事 2:31
100年前の日本では、庶民はどのように暮らしていた?第一次世界大戦中でもある大正時代の庶民の暮らしぶりを知ることができる、歴史的に貴重な写真の数々を紹介!
歴史- 9.11K 回再生
- YouTube
大正時代の庶民の暮らしを写真でご紹介! こちらの動画『1914~1918(大正3年~大正7年)庶民の暮らしと「赤とんぼ」』には、大正時代の日本の人々の暮らしの様子が映されています。 写真を撮影したのは、アメリカ人営業マンのエルストナー・ヒルトンさん。 動画に使われているBGMは、日本の有名な童謡、作詞・三木露風、作曲・山田耕筰の「赤とんぼ」です。 戦争前や第一次世界大戦中には写真技術があまり発達していなかったため、この動画にまとめられた写真の数々はとても貴重です。 約2分半の映像で、現在へと受け継がれている日本の庶民の生活をご堪能ください。 写真で紹介されている、日本の大正時代とはどのような時代? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代とは現在から約100年前、大正天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間のこと。 この時期の日本では明治維新後に民主主義の発展を目指す「大正デモクラシー」が起こりました。 また、第一次世界大戦が起こったのも大正時代です。 大正時代はたった15年の短い時代ですが、日本近代史を語る上で欠かせない期間でもあります。 大正時代の庶民の服装や食文化、生活の様子とは? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代には洋服のファッションも登場しますが、庶民の多くはまだ着物を身につけて暮らしていました。 動画の1:16には川で着物を洗濯する女性の姿も映されています。 写真を見ても分かるように、男性は短髪、女性は1つにまとめた髪型にするのが一般的でした。 動画の0:28には、道端で占いをする易者の姿もあります。 0:35には伝統工芸品の籠を編む男性の様子が、0:44には日本伝統のダルマ作りも撮影されています。 その他にも動画では、当時の日本の生活の様子がわかる写真が次々と紹介されています。 動画の1:08に映っているのは、庶民の暮らしや食事作りに欠かせなかった囲炉裏(いろり)です。 冬にはこれで暖を取っていました。 また、1:56に紹介されているのは、猿回しと呼ばれる芸能文化です。 テレビやインターネットなどが無い当時の庶民の娯楽でした。 大正時代の庶民の暮らしを撮影した動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、大正時代の暮らしを撮影した写真を動画にまとめたものをご紹介しました。 貴重な写真の数々からは、当時の庶民がどのように生活していたのかをうかがい知ることができます。 紹介されている写真には、笑顔の人々がたくさん写っています。 大正時代には戦争が起こり、庶民は貧しい暮らしを余儀なくされましたが、人々の心は豊かだったのかもしれませんね。 -
動画記事 8:38
長野県諏訪郡「井戸尻考古館」制作の再現VTRで縄文時代の生活が丸わかり!遺跡から出土した石器、土器など。遺物から縄文人の生活を解き明かす!
歴史 生活・ビジネス 観光・旅行- 982 回再生
- YouTube
長野県諏訪郡「井戸尻考古館」制作「縄文人の生活再現動画紹介 美しい神社、趣のある風景、おいしいグルメなど、日本らしい特徴のあるものを目当てに、さまざまな観光客が日本に訪れています。 日本人からしても、京都や奈良の歴史ある建物や、寿司やそばといった美味しい食べ物はとても魅力ですよね。 ただ、今回はそういった王道の日本の楽しみ方ではなく、日本の時代区分のひとつである縄文時代に生きた縄文人の生活を学べる少しマニアックな穴場スポットをおすすめします。 この記事では、縄文人の生活を学べる井戸尻考古館や、縄文時代の生活を動画に沿って紹介します。 「日本の歴史」縄文人とは?当時の生活の特徴とは? 画像引用 :YouTube screenshot 縄文人は、日本列島の時代区分のひとつ、今から約1万6,000年前から約3,000年前の縄文時代に、北海道から沖縄の日本全土で生活をしていた人々です。 世界史では、中石器時代、及び新石器時代に相当する時代です。 縄文人は、生き延びるためにさまざまな工夫をして生活していた人々。 弥生時代、そして現代へと受け継がれてきた道具や物を発明し、暮らしを楽にしていたのです。 例えば、弓を作ったのも縄文時代で、遠くから狩りができるようになりました。 また、石器や土器を発明し、食べ物を調理したり、保管ができるようになりました。 竪穴住居をつくり、一ヶ所に定住しはじめ、村ができたのもこの時期。 このように、さまざまな知恵で生活をよりよくするために工夫していたのが、縄文人です。 縄文人の生活や文化を学べる井戸尻考古館とは 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:27よりご覧になれる長野県にある井戸尻考古館は、縄文人の生活や文化を学べる施設です。 土器を初め、縄文時代の生活を物語る資料がたくさん展示されています。 土器や石器は縄文時代の年代別ごとに展示されており、それぞれの用途なども書かれています。 さらに、縄文人が住んでいた住居や、食生活、服装などを再現したコーナーも見学できるので当時の暮らしを想像して楽しめます。 また、土器や石器の文様から解読した当時の宗教や神話などを学べる場所もあり、歴史好きには必見。 動画の0:38からご覧になれる井戸尻文化の遺跡で数多く見つかっている石鍬(いしくわ)。 およそ4,500年前に、この石の鍬で畑を耕す農耕民族となりました。 春には粟やきび、夏にはそばを蒔いていたようです。 こちらは動画の1:02からの当時の再現映像でご覧になることができます。 ここ井戸尻考古館では、夏の畑の雑草を取り除く除草具も多数展示されています。 画像引用 :YouTube screenshot 動画の2:10からご覧になれる秋の雑穀の収穫には、石包丁を使用していました。 脱穀した穀物は石臼で殻を取り除き、土器で粥に調理され、家族揃って竪穴式住居で食事をします。 縄文人は粥だけではなく、川魚や山菜、クルミ、団子なども口にしていました。 こちらも動画内の再現VTRでご覧になれます。 これらの調理道具などに使用されていた縄文土器の作り方は動画の4:59よりご覧になれます。 まずは、粘土をこねて砂を混ぜて生地を作り、生地を帯のようにして、隙間が出来ないように積み上げ模様を付けます。 半月から一か月から十分に乾燥させてから、たき火で焼きあげます。 では石器はどのように作られたのでしょうか? こちらは動画の6:23よりご覧になれます。 楕円形の扁平な石を大きな石に打ちつけて薄いかけらを割りとり、石の鍬で成型しています。 当時の鍬などの石器は、現代の鍬と変わらぬ形をしています。 他にも、井戸尻文化の遺跡は女性の首飾りなども、出土されています。 動画では弓で動物を射る様子もご覧になれます。 井戸尻考古館は、日本のルーツや縄文人の生活を学べる興味深いスポットです。 縄文人の当時の生活を再現した動画紹介まとめ 画像引用 :YouTube screenshot こちらの記事で紹介した「IDOJIRIKOUKOKAN」が制作した、縄文人の生活を再現した動画は日本の歴史を知りたい方にはおすすめの一本です。 鍬や斧といった道具の使い方や、穀物の扱い方などの再現VTRは、当時の日本の生活がわかりやすく紹介されています。 日本の縄文時代の有名な遺跡は、三内丸山遺跡(青森県)、亀ヶ岡遺跡(青森県)、大森貝塚遺跡(東京都)、加曾利貝塚(千葉県)、菜畑遺跡(佐賀県)などがあります。 こちらの動画をご覧になって、縄文時代に興味を持たれた方はこれらの遺跡にも足を運んでみてはいかがですか。 【公式ホームページ】井戸尻考古館ホームページ http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html -
動画記事 3:56
戦後75年の今でも戦争の傷跡が多く残る東京都の「硫黄島」。太平洋戦争の激戦地は当時の悲惨な状況を現在に伝える。
歴史- 617 回再生
- YouTube
硫黄島の戦跡を紹介する動画について こちらの動画は「時事通信トレンドニュース」が制作した「硫黄島の戦跡を巡る=灼熱の地下壕、集団埋葬地」です。 第二次世界大戦は日本に数多くの傷跡を残しました。 しかし、戦後多くの史実が捻じ曲げられて伝えられることもあり、未だ太平洋戦争のそして旧日本軍の本当の姿を知らない方も多くいます。 硫黄島に残された痛ましい戦跡もその一つ…。 昭和の頃は日本唯一の本土決戦の地は沖縄だと教えられてきました。 しかし、沖縄よりも前に激しい陸戦が行われたのが太平洋に位置する小笠原諸島の周囲12kmしかない小さな硫黄島でした。 この硫黄島には戦前は多くの民間人が住んでいましたが、戦争によって硫黄島は稀に見る激戦地となり、本土引き上げが間に合わなかった民間人と栗林忠道中将を中心とする守備隊の多くは戦死したのです。 渡辺謙、嵐の二宮和也が出演した映画「硫黄島からの手紙」は硫黄島の激戦を伝える数少ない映画の一つです。 こちらの記事では現在の硫黄島を紹介している動画に沿って、硫黄島の歴史を紹介します。 硫黄島とは?硫黄島上陸計画は日本本土攻略の要石だった? 写真:硫黄島 硫黄島とは東京都小笠原村の一つ。 東京23区内からはおよそ1,200kmに位置する小さな火山列島で今も噴火を繰り返しています。 動画の冒頭0:06からは硫黄島の北部にある米軍が制作した壁画をご覧になれます。 硫黄島に上陸した海兵隊員が擂鉢山に星条旗立てる有名な場面がモチーフとされていますが、この人達だけがヒーロー扱いされていたことに憤慨しこの壁画に米軍が銃弾を撃ち込んだそうです。 動画では戦跡として、動画の1:45からは被弾して抉れた(えぐれた)砲身を晒すアームストロング砲や不発弾、動画の3:33からは米軍が廃棄したシャーマン戦車の残骸など生々しい戦跡が映し出されています。 画像引用 :YouTube screenshot アメリカ軍による硫黄島上陸計画はデタッチメント作戦と呼ばれました。 開戦当初から日本軍と連合国軍の兵力は歴然とした差がありました。 これに対し、旧日本軍は動画の1:16からご覧になれるような地下壕に潜伏し、ゲリラ戦法で戦力差を補いつつ戦いました。 しかし、活火山である硫黄島の地熱は高く、地下壕は灼熱地獄の様相を呈していたと言われています。 動画でも0:40頃から病院として使われていた戦跡の一つ、海軍医務科壕の奥に入ると地下熱でカメラのレンズが一瞬で曇ることからも、いかに過酷な状態であったのかが伺えます。 また海底火山から出る有毒ガスが突撃壕に充満し、危険な状態での防衛戦術だったと伝えられています。 旧日本軍はアメリカ軍と硫黄島の自然環境の二重の苦難にさらされながら、3日でケリがつくといわれていた硫黄島の戦いを約1ヶ月も粘り抜いたのです。 これだけの時間を硫黄島に費やしたことは、アメリカ軍にとって硫黄島が日本本土攻略においての重要拠点であったかということを物語っています。 今に残る硫黄島の戦跡を巡る見学会 写真:硫黄島 現在は観光で一般人が硫黄島を訪れることはできませんが、年に1度だけ硫黄島3島の戦跡を巡る見学会が催行されています。 公開されているのは集団埋葬地、戦後米国のプロパガンダに使われ生き残りの米兵が銃弾を打ち込んだと言われている壁画、大阪山砲台、遺骨収容場などの戦跡です。 それ以外の時期は海上自衛隊が駐屯し、訓練と遺骨収集を行っているので立ち入り禁止区域になっています。 硫黄島の戦跡を紹介する動画のまとめ 画像引用 :YouTube screenshot 戦後日本はアメリカ軍の統治下におかれ、自治を回復するまで硫黄島は日本人が足を踏み入れることのできない戦跡になりました。 生き残った島民は故郷を追われ、全国に散り散りになり今も硫黄島には年に1回しか帰省することができません。 動画の2:14からご覧になれるようにアメリカが公開した公式文書には2,000名の遺骨が遺骨収容場所に埋葬したと記載されていますが、未だ60%以上の戦没者が硫黄島に眠っているのです。 戦争という悲劇を繰り返さないために、現在も残る傷跡から日本の歴史を学んでください。 【トリップアドバイザー】硫黄島 https://www.tripadvisor.jp/Tourism-g1137885-Iwo_Jima_Tokyo_Prefecture_Kanto-Vacations.html -
動画記事 1:16
日本の宇宙開発は1955年に開発されたわずか20cmの小型のペンシルロケットから始まった!爆発的なスピードで進歩した日本の宇宙開発技術は世界を引っ張る!
生活・ビジネス 歴史- 42 回再生
- YouTube
60年以上に及ぶJAXAの宇宙開発の歴史 こちらで紹介されている動画は「JAXA | 宇宙航空研究開発機構」が公開した「JAXA-日本の宇宙開発史ハイライト- | The History of Japanese Space Exploration」です。 多くの方がそれぞれの思いを馳せる星空…、人は太古から空を見上げ生活の知恵として生かしてきました。 日本でも古くから陰陽道は星の動きを読み、吉凶を占って政治の中枢で活躍していた時代があったのです。 まさに星と人とは切っても切れない縁があるのです。 欧米に比べ日本の宇宙開発は遅れていると勘違いされがちですが、実は日本はすでに60年以上の年月を宇宙開発に捧げ、今では世界でもトップレベルの実績を持っている国なのです。 日本の宇宙開発の中心を担うのがJAXAです。 今回はJAXAが紡いできた宇宙開発の歴史について動画で紹介いたします。 動画で紹介されているJAXAの宇宙開発の歴史とは 写真:月面着陸 JAXAは2003年に宇宙科学研究所(ISAS)、航空宇宙技術研究所(NAL)、宇宙開発事業団(NASDA)の3つの機関が統合して種子島宇宙センターに誕生した日本の宇宙開発の中核組織です。 前身である3つの組織はいずれも民間の宇宙開発機関だったのですが、JAXAとして生まれ変わった後は日本政府の宇宙開発研究を支える中核的機関になりました。 最新の日本製宇宙探査機は世界でもトップクラスの技術を有しています。 ここで輝かしい成果を歴史に残したJAXAの功績のいくつかをご紹介します。 ・2007年 月周回衛星かぐやによる世界初のハイビジョン月面撮影成功(動画:0:47〜) ・2009年ISS日本実験棟きぼうの完成(動画:0:53〜) ・2010年惑星探索機「はやぶさ」が地球帰還。小惑星の地表サンプル回収成功(動画:0:58〜) ・2019年観測用ロケット「はやぶさ2」が小惑星リュウグウへのタッチダウン成功(動画:1:00〜) JAXAが誕生してから今日までの17年という短期間で数多くの偉業を成し遂げてきたのです。 JAXA誕生以前の日本の宇宙開発の歴史の幕開け 画像引用 :YouTube screenshot 日本の宇宙開発は動画の冒頭でも紹介されているように、1955年ペンシルロケットと呼ばれる超小型ロケットの開発で幕を開けます。 戦後わずか10年で、すでに国内の復興と宇宙開発に着手していたのです。 そして、1970年には日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功。 1985年には「すいせい」でハレー彗星の観測、1992年毛利衛氏がスペースシャトルで日本人初の有人宇宙飛行に成功、1994年国産大型ロケットH-Ⅱの打ち上げ成功など、JAXAが誕生する以前からいくつもの偉大な歴史を残しているのです。 JAXAと日本の宇宙開発の歴史の紹介まとめ 写真:ロケット 実は日本の宇宙開発は1955年のペンシル発射実験の時点から世界では大きな注目を集めていたと言われています。 ペンシルロケットは非常に小型なためベビー型という愛称があり、S型、T型、R型という3つのタイプが開発されました。 この時のペンシルロケットはすでに音速に近い速度を出しており、軌道データなどがその後のカッパ型ロケットに活かされました。 当時、日本では達成不可能と言われていた高度100kmを超える観測ロケット開発を国産技術だけでやってのけたのです。 米ソという宇宙開発大国の影で目立たない存在でしたが、日本の技術力の確かさは他の国のロケット開発にも導入されてきた歴史があるのです。 特に「はやぶさ」に搭載されていた最新のエンジン技術や、遠隔操作技術はこれからの宇宙開発の歴史にとって、大きな財産になることでしょう。 【公式ホームページ】JAXA|宇宙航空研究開発機構 https://www.jaxa.jp/ -
動画記事 3:37
日本一の城と称された東京都千代田区にある「江戸城」の歴史を学ぶ!多くの古写真が物語る歴史的建造物は今もなお世界中の人に愛される名所
歴史- 754 回再生
- YouTube
東京都千代田区「江戸城」動画紹介 こちらは「LIT esperan」が制作した『Edo Castle / Tokyo Imperial Palace in 1871 江戸城』で、江戸城をたっぷりの古写真で振り返る動画です。 江戸城は規模の大きさ、天守の高さ、御殿の大きさから「日本一」の城と言われています。 この記事では歴史や江戸城跡の観光スポットを動画に沿ってご紹介いたします。 江戸城は明治時代まで残されていたため、写真が多く残っている特徴があります。 まずは、動画でかつての江戸城の勇姿をご覧ください。 江戸城とは?その歴史は? 画像引用 :YouTube screenshot 江戸城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年に築いた平山城です。 その後、豊臣秀吉が開城し、江戸時代に徳川家康が増築・改築を行いました。 その結果、日本最大の面積の巨大城郭になります。 徳川幕府の政庁として使用された後、明治元年に明治新政府に明け渡され、明治2年に皇城となります。 こちらは「江戸城明け渡し」「江戸城無血開城」と言われます。 1888年には宮城となり、1948年に皇居と改称されました。 現在も江戸城跡の一部が天皇陛下のお住まい「皇居」として使用されています。 動画で紹介される江戸城に関連する場所はどこ? 写真:皇居・富士見櫓 動画のスタートは、高層ビルが建ち並ぶ東京にぽっかりと緑の空間が現れます。 ここが江戸城の内郭という城の中心部で、外側には外郭がありました。 動画の0:38から、浅草本願寺、浅草寺、桜田門、虎ノ門、富士見櫓、水道橋、新大橋と隅田川、日比谷門、浅草橋門、本丸大手門、坂下門、西ノ丸二重橋など現在もよく知られている人気スポットが古写真で紹介されます。 動画の途中には2:05から最後の徳川将軍の徳川慶喜公、1:33からは江戸城周辺の古地図や天守閣の図面も映されます。 江戸城の見学について 写真:皇居周辺 江戸城は東京都千代田区にあり、交通アクセスは、JR「東京」駅、東京メトロ・都営地下鉄「大手町」駅から徒歩約5分です。 江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部は、皇居東御苑として一般に開放されています。 北の丸は、北の丸公園になっていて、周辺は観光客やランニング(皇居ラン)する人が多く訪れます。 天守閣は3回建造されましたが焼失し、再建・再現が計画され天守台が積み直されたところで止まってしまいました。 残された江戸城天守台は現在も見学することができます。 皇居に訪れた際には城門の近くの大番所や、立派な石垣、広場にあった本丸御殿の「忠臣蔵」でおなじみの松之廊下跡や大奥、和田蔵門跡、和田蔵門跡、石室、松之廊下跡、中雀門跡を見学するのがおすすめです。 皇居見学ツアーもあるのでこちらに参加されるのも良いでしょう。 江戸城の紹介まとめ 写真:江戸城の天守台 こちらの『Edo Castle / Tokyo Imperial Palace in 1871 江戸城』は、明治時代初めごろの江戸城の多くの写真を紹介しています。 皇居部分については、宮内庁に参観申し込みをすることで見学することができます。 詳細については、宮内庁のホームページでご確認ください。 江戸城は、その大きさや築城期間の長さ、天守閣の高さなどの点で、日本一を誇ります。 江戸城の歴史や観光スポットについてご紹介したこちらの記事を読んで、江戸城に興味を持っていただけたら嬉しいです。 【トリップアドバイザー】皇居東御苑(旧江戸城本丸跡) https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1066443-d320625-Reviews-The_East_Gardens_of_the_Imperial_Palace_Edo_Castle_Ruin-Chiyoda_Tokyo_Tokyo_Prefe.html -
動画記事 1:45
鉄砲伝来の地、鹿児島県種子島はどんな観光名所?種子島銃に関するスポットを巡る歴史観光を楽しんでみよう!
歴史- 106 回再生
- YouTube
鹿児島県種子島の「鉄砲期」に関する動画をご紹介! こちらの動画は、読売新聞オンラインが制作した【史書を訪ねて「鉄砲記」 鹿児島・種子島】です。 こちらの動画で紹介されている鹿児島県種子島は、日本に初めて鉄砲が伝来した地として知られます。 動画冒頭には美しい種子島門倉岬のドローン空撮映像が収録されています。 豊かな自然風景と鉄砲伝来の歴史をご堪能ください。 鹿児島の種子島に鉄砲が伝来したのはいつ? 写真:火縄銃を持った鎧武者 鹿児島県種子島は鉄砲伝来地として知られるスポット。 1543年(天文12年)に種子島に漂着したポルトガル人によって、鉄砲とともに製造技術や射撃法などが伝えられました。 動画の0:27からは、鹿児島県種子島にある鉄砲伝来の記念碑や鉄砲像が紹介されています。 種子島に伝わった鉄砲はマッチロック式と呼ばれる大筒の銃器で、種子島銃とも呼ばれます。 鉄砲伝来と同時期の1549年(天文18年)には、ヨーロッパ人宣教師によって日本にキリスト教も伝えられました。 鹿児島県種子島の鉄砲に関するスポットとは? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:41で紹介されている種子島総合開発センター鉄砲館の近隣には、初めて鉄砲を発砲したという種子島時尭の銅像もありますよ。 種子島時尭は火縄銃の国産化を果たしたことでも知られます。 動画の1:17から映されている八板金兵衛清定は、鉄砲を複製し、また鉄砲の発砲に必要なネジを開発したと伝わる人物です。 これによって鉄砲の量産が可能となり、戦国時代には多くの武将が安価な値段で鉄砲を手に入れられるようになりました。 鹿児島県の種子島を訪れてみよう! 写真:鹿児島県・種子島の洞窟 種子島には動画に紹介されている鉄砲伝来に関するスポットのほかにも、種子島宇宙センター宇宙科学技術館や赤尾木城文化伝承館月窓亭をはじめとした多くの観光スポットがあります。 喜志鹿崎や浦田海水浴場、馬立の岩屋や千座の岩屋、アコウの木のアーチといった自然豊かなスポットもぜひ訪れてみましょう。 種子島では毎年鉄砲祭りが開催され、多くの観光客で賑わいますよ。 鹿児島県種子島の鉄砲伝来に関する動画まとめ 写真:鹿児島県・種子島 鹿児島県の種子島は、動画を見ても分かるようにとても自然豊かで魅力的なスポットです。 ぜひ種子島で鉄砲伝来に関する観光スポットをめぐって、その深い歴史を感じてみましょう。 鉄砲やキリスト教伝来についてさらに詳しく知りたい方は、長崎県五島列島に訪れるのもおすすめです。 【公式ホームページ】学びを遊ぶ、南の島「種子島」 | 種子島観光協会 http://tanekan.jp/ -
動画記事 4:06
今なお人気を集める幕末の志士、坂本龍馬の生涯に迫る!坂本龍馬の生い立ちや活動内容を知れる貴重な展示品を一挙紹介!
歴史- 120 回再生
- YouTube
坂本龍馬展の情報動画をご紹介! 今回ご紹介するのは「時事通信トレンドニュース」が公開した動画「暗殺の様子再現、坂本龍馬展=初公開の手紙など70点披露、人斬り以蔵の拳銃も」です。 こちらの動画では、ホテル雅叙園東京(東京都目黒区)で2017年に開催された「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」の様子が収められています。 このイベント「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」では、坂本龍馬の愛刀や手紙といった遺品がたっぷりと紹介されており、幕末ファン必見の内容となっています。 動画で紹介されている坂本龍馬とは? 画像引用 :YouTube screenshot 坂本龍馬は江戸幕府末期に活躍した土佐藩郷士。 本名を坂本直柔(なおなり)といい、誕生日は1836年1月3日。 脱藩後には志士として活動し、勝海舟と師弟関係を結び、亀山社中(のちの海援隊)を結成しました。 坂本龍馬のエピソードとしては、間一髪で難を逃れた寺田屋事件や、薩摩藩と長州藩の間を坂本龍馬が取り持った薩長同盟がよく知られます。 坂本龍馬の生涯は、「龍馬伝」をはじめ多くの大河ドラマで再現されています。 また、近年では幕末を題材にした歴史ドラマ「仁」も人気を集めました。 動画で紹介されている「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」とは? 画像引用 :YouTube screenshot 動画で紹介されている「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」は、2017年に高知県にある坂本龍馬記念館の改装工事期間中に、収蔵品を東京会場に移して展示しました。 東京都有形文化財「百段階段」に展示されたのは、坂本龍馬愛用の脇差しや、土佐藩・後藤象二郎に宛てた書簡「越行の記」など。 また、姉の乙女が締めた帯、人斬り以蔵の異名をもつ岡田以蔵の拳銃なども紹介されています。 ほかにも、動画には坂本龍馬写真のガラス湿版、龍馬書簡、姉・乙女宛「ねぶとの手紙」、下関海戦図、薩長同盟裏書き、年表などが公開され、注目を集めました。 これらの展示品の数々は動画の0:14よりご覧になることができます。 動画には坂本龍馬の暗殺の様子も再現されている! 動画の2:47からの「サラバ、龍馬」では、坂本龍馬の暗殺の経緯を知ることができます。 坂本龍馬が免許皆伝した北辰一刀流を現代に受け継ぐ「北辰一刀流・玄武館」が監修した、京都・近江屋における暗殺シーンは迫力満点。 坂本龍馬が中岡慎太郎や山田藤吉とともに京都見廻組に襲われる様子を、影絵映像や音で体感できます。 坂本龍馬の紹介動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、幕末志士・坂本龍馬について詳しくご紹介いたしました。 動画にあるような坂本龍馬の貴重な遺品は、現在は高知県坂本龍馬記念館でご覧になることができますよ。 日本の歴史の中でも、幕末時代は特にドラマティック。 現在も多くのファンを魅了する坂本龍馬について、ぜひもう一度動画をご覧になり詳しくチェックしてみてくださいね。 【公式ホームページ】高知県立坂本龍馬記念館 https://ryoma-kinenkan.jp/ 【トリップアドバイザー】高知県立坂本龍馬記念館 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298234-d1818581-Reviews-The_Sakamoto_Ryoma_Memorial_Museum-Kochi_Kochi_Prefecture_Shikoku.html -
動画記事 13:17
親日国トルコとの友情は和歌山県から生まれた!エルトゥールル号海難事故から130年経った現在でも深い交流は続く!
歴史- 149 回再生
- YouTube
エルトゥールル号遭難事故とは 今回ご紹介する動画は「WakayamaPref」が公開した、日本から8,700km離れた親日国トルコとの絆を結んだエルトゥールル号を紹介した「日本トルコ 時を越える絆 ~エルトゥールル号が繋ぐ友好の物語~」です。 東ヨーロッパと西アジアにまたがるトルコは親日国として有名ですが、その歴史は今から130年前の日本の本州最南端である和歌山県串本町にある大島で起きた、エルトゥールル号の遭難事故から始まりました。 トルコ軍艦が1890年9月にトルコへの帰国の途中で台風により船甲羅という岩礁に衝突し、樫野崎沖に沈没しました。 地元住民がこのとき海難事故にあったトルコ人船員を救出作業したことからトルコとの友好が始まったのです。 エルトゥールル号を救った串本町 画像引用 :YouTube screenshot トルコのエルトゥールル号救出活動にあたった人たちの住む集落は和歌山県串本町の樫野地区の方々です。 当時、通報を受けた住民らは、救助と介抱をおこないました。 こちらは動画の1:26より詳しく紹介されていています。 決して豊かではなかった時代に、台風で漁に出られず蓄えも少ない中、衣類や食料をトルコ人たちに提供しました。 当時おにぎりを提供したとされる入れ物の「もろぶた」も残されています。 こちらは動画の2:43からご覧なれるエルトゥールル号の救出にあたった住民の息子さんへのインタビュー内で紹介されています。 イランイラク戦争と親日の歴史 1985年に起きたイラク戦争のさなかにイラン・テヘラン在留邦人救出がおこなわれました。 イランの首都テヘランに取り残された日本人215人をトルコ政府が派遣したトルコ航空機によって救難活動されたというものです。 この事件も親日のトルコとの絆によって起きたエルトゥールル号救出恩返しと言えます。 今も続くエルトゥールル号遭難事故への慰霊祭 写真:トルコ記念館 動画の5:33からご覧になれるように、エルトゥールル号遭難事故の翌年から住民らによる慰霊祭が行われ、以来途切れることなく交流が受け継がれ、現在も5年ごとにトルコとの合同慰霊祭を行っています。 式典に向けて和歌山県串本町では街を上げて準備をしました。 また、6:49からご覧になれるように2015年にトルコ記念館がリニューアルオープンし、新たに遺品発掘調査で発見された遺品展開催がされました。 当時のエルトゥールル号は木造であったため、船内にあった遺品はすべて海に沈みました。 これらの遺品調査が2008年から続けられています。 多くの調査を繰り返し、これまでトルコと日本あわせて7箇所で遺品の展覧会を行っています。 動画の9:04からご覧になれる2015年の発掘調査では当時船が遭難した樫野崎沖で作業をおこない、51回の潜水で311点もの遺品を見つけることができました。 エルトゥールルリサーチセンターでこれらの遺品が調査され、地元の子どもたちも保存作業を協力しています。 画像引用 :YouTube screenshot 島唯一の大島小学校では総合の時間で親日国トルコと日本の交流について学びます。 トルコのあいさつをする様子が動画の7:34からご覧になるができます。 また、親日家であるトルコ人が串本町の役場で働く様子は7:50よりご覧になれます。 8:16から紹介されているのは親日友好の証として串本町が開発したのが「エルトゥールル」という名前のバラです。 トルコの親日の歴史を知れるエルトゥールル号紹介まとめ 写真:トルコ軍艦遭難慰霊碑 動画でご覧になれるように和歌山県串本町トルコ文化協会では、民族舞踊や言葉の勉強、親日であるトルコ人との交流などの活動をおこなっています。 日本とトルコの友好125周年を記念して映画「海難1890」も公開されました。 小説や本も多数出版されています。 四季折々の風景や世界遺産である高野山と熊野がある和歌山で新日交流を築いたエルトゥールル号の奇跡と日土国交の歴史を学んでみてください! -
動画記事 6:42
幕末・江戸時代の伝説のサムライたちの姿が収めた貴重な映像!多くの外国人の心を引き付ける侍文化を堪能する!
歴史- 254 回再生
- YouTube
こちらの動画は「マジ話チャンネル」が公開した「【驚愕】発見された「日本最後の侍」の写真が凄すぎる!嘘のような本当の写真 江戸時代 幕末 伝説のサムライたちがヤバイ」です。 日本に写真の技術が持ち込まれたのは江戸時代末期のことです。 なんと日本には、明治維新の時期から明治期にかけて撮影された侍の写真が残されているのです。 動画で紹介されている写真を撮影したのは、フェリーチェ・ベアトや日下部金兵衛といった写真技術者たち。 彼らは、現在の日本には存在していないかつての侍の姿を、写真として残していました。 動画の3:33には人気志士の坂本龍馬を撮影した写真も紹介されています。 ぜひ動画を見て、日本の侍ならではのかっこいい衣装を堪能しましょう。 -
動画記事 15:03
日本の歴代の天皇全125代をご紹介します。2019年に「令和」の時代が始まり、日本は新たな時代の幕開けとなった。
歴史- 25 回再生
- YouTube
こちらの動画は「Yasaka Hastur」さんが公開した「歴代天皇125代.」です。 「歴代天皇125代.」の動画は、日本の歴代天皇を約15分で紹介する動画です。 初代神武天皇から、現在は上皇陛下となられた125代天皇(動画は2012年制作なので今上天皇として紹介)までを、肖像と実名、即位期間とともに紹介します。 令和になった現在は、126代今上天皇が即位されています。 動画を視聴すると、歴代天皇の長い歴史を静かに感じることができるでしょう。 14:00からは上皇陛下と皇族の方たちの写真も紹介されます。 -
動画記事 2:36
日本最古級の前方後円墳「箸墓古墳」の謎に迫る!奈良県桜井市にある箸墓古墳は卑弥呼の墓なのか!?名前の由来は?最新技術で古代の謎を解き明かす!
歴史- 1.08K 回再生
- YouTube
奈良県桜井市にある箸墓古墳の紹介動画について こちらの動画は「読売新聞オンライン動画」が制作した『史書を訪ねて 「日本書記」 奈良・箸墓古墳』です。 奈良県にある日本最古級の古墳「箸墓古墳(はしはかこふん)」を紹介しています。 箸墓古墳は全長200mを超える巨大古墳の撥型の前方後円墳で、ドローンを使用した空撮で、草木に覆われ森となった古墳周辺の全体像をご覧になることができます。 箸墓古墳は、弥生時代から古墳時代にあたる3世紀後半に造られたとされ、日本書紀に登場する「倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまととひももそひめのみことおおいちのはか)」として宮内庁が管理します。 そのため古墳内部に立ち入ることができません。 緑に覆われる箸墓古墳は、史跡名勝天然記念物に指定されているほか、周濠は「ため池百選」に選定されています。 この動画で謎の多い箸墓古墳の雰囲気をぜひ感じてみてください。 奈良にある最古級前方後円墳・箸墓古墳とは 画像引用 :YouTube screenshot 奈良県桜井市にある箸墓古墳は、日本書紀が描く「倭迹迹日百襲姫命」の墓といわれています。 夫が蛇であったことに驚いて、腰を付いた時に局部に箸が刺さって死んだという伝説がこの墓の名前の由来・理由となっています。 「倭迹迹日百襲姫命」は、魏志倭人伝などの文献に記されている邪馬台国の女王「卑弥呼」と相通じるものがあるといわれ、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかとする研究者もいて、大和王権の誕生と箸墓古墳の位置づけをめぐって論争にもなっています。 動画の0:54からご覧になれるように、奈良県桜井市の博物館「市立埋蔵文化センター」には、箸墓古墳周辺で発掘された板状の「芝山の石」が保管されています。 「芝山の石」は石室の築造につかわれたとみられており、箸墓古墳から西に約18キロ離れた大阪府柏原市の玄武岩とされています。 ほかにも多くの土器や木製品などの出土品も確認されています。 奈良・箸墓古墳のミューオン調査について 画像引用 :YouTube screenshot 過去に何度か宮内庁の許可を得て、考古・歴史研究者などによる箸墓古墳の立ち入り調査がおこなわれているものの箸墓古墳の謎は解明されていません。 2012年にはヘリコプターに搭載した3次元航空レーザー計測がおこなわれ詳しい遺影が判明しました。 また、2020年1月に箸墓古墳を研究する橿原考古学研究所が物質を透過する「ミューオン」と言われる素粒子を利用して、宮内庁の敷地外から内部構造を調査すると発表しました。 今後の調査結果の発表で、箸墓古墳の解明につながるかが注目されています。 長年の調査により箸墓古墳は盗賊の侵入による盗掘で掘り起こされた痕跡のない日本でも珍しい古墳であるともいわれています。 奈良県桜井市・箸墓古墳まとめ 写真:桜井線 こちらの記事では、箸墓古墳についてご紹介しました。 奈良県桜井市箸中の箸墓古墳を中心に纒向古墳群があり、箸墓古墳とセットで観光するのもおすすめです。 箸墓古墳への交通アクセスは、JR桜井線巻向駅から徒歩15分。 駐車場もあります。 本当に卑弥呼の墓なのか?壮大な古代のロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。 【公式ホームページ】奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/ -
動画記事 4:03
100年以上前の東京ではどのような生活を過ごしていた?大正時代の東京の貴重な映像が発見された!?
生活・ビジネス 歴史- 2.42K 回再生
- YouTube
100年以上前の東京の姿を映した貴重な映像を紹介! 今回、紹介する動画は「Final A」さんが公開した「東京の昔の映像 (音声あり)」です。 みなさんは昔の東京の生活をご覧になってみたいと思ったことはありませんか? 学校の授業で教科書の写真を見たり、学んだことがあるけど、実際どのような生活をしていたのか映像で見た人は少ないと思います。 こちらで紹介する動画では1913~1915年頃(大正2~4年)の東京の様子が映し出されています。 とても貴重な映像をお楽しみください。 約100年前の東京ではどんな生活を送っていたのか? 画像引用 :YouTube screenshot こちらで紹介する映像では多くの人が着物に袴で街を歩いている様子が映し出されています。 動画では0:04からご覧になれます。 また2:59からは子供が毬で遊んでいる様子も。 当時の日本で毬は一般的な遊び道具であり多くの子供たちが日々遊んでいました。 服装も現代とは違い、和服が主流となっているのがわかるでしょう。 街にはまきや炭に「あんどん」があり、夜はそれらを使い街を照らしていました。 当時の東京の人口は約300万人。 日本全体でも5000万人程となっていて現在の日本の半分くらいの人口だと言えるでしょう。 動画の2:42からご覧になれる浅草寺の映像では昔から東京浅草は多くの人で賑わっていたことがわかりますね。 「昔の東京の映像」で映し出されている1913~1915年に起こった出来事とは? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代は15年間と短い時代区分ですが関東大震災があったことで有名です。 しかし、それ以外にも多くの出来事が起こりました。 特に有名な出来事としては第一次世界大戦が始まったのが1913年です。 1914年は日本初の百貨店、三越呉服店(現日本橋三越本店)が新装開店し、今ではおなじみのライオンの石像、エスカレーター・エレベーターも大きな話題となりました。 おもちゃ産業や商品開発などが盛んになり、近代化の始まりとなった頃です。 また、東京駅が開業したのも1914年。 多くの列車が東京を行き来し、駅構内は混雑していたことでしょう。 東京の歴史は? 画像引用 :YouTube screenshot 東京都の前にあった東京府誕生が1886年(明治元年)です。 そこから動画で紹介されている大正期に入り全国から人口流入が起こってきます。 明治時代に入り、農業中心から工業中心となり大正デモクラシーなど日本を始め、東京が大きく変わった時代です。 動画では人力車などで東京を移動する人も多く映されていますが、次第に自動車や電車といった交通手段へ変わっていきます。 当時は東京の水も綺麗で井戸も多くありました。 昔の東京を紹介した動画のまとめ 昔の東京の姿を見て、懐かしく思ったご年配の方の中もいらっしゃるのではないでしょうか。昔の映像は日本の歴史を知る中で興味深いものだと感じた人も多いでしょう。 もし、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒にこの動画を見たら何か面白い話が聞けたりするかもしれませんよ。 -
動画記事 3:54
「赤穂の獅子舞」は日本伝統の勇壮な獅子舞が兵庫県赤穂市の沿道をダイナミックに練り歩く!日本で古くから親しまれてきた獅子舞を動画でご堪能あれ!
祭り・イベント 歴史- 818 回再生
- YouTube
日本伝統の祭礼・赤穂の獅子舞とは こちらは、「赤穂市公式動画チャンネル-Channel AKO-」が制作した、新田西部獅子舞保存会による赤穂の獅子舞の公式PR動画「赤穂の獅子舞「新田西部獅子舞保存会」」です。 兵庫県赤穂市では、秋になると地区ごとにさまざまなイベントが行われ賑わいます。 その中でも、新田西部獅子舞保存会によって披露される、赤穂の獅子舞は、歴史ある勇壮なお祭りとして注目を集めます。 新田西部獅子舞保存会による、赤穂の獅子舞は、神社や寺院の参道を練り歩きます。 秋の赤穂市で行われる、日本の伝統文化のひとつである勇壮な獅子舞を紹介した動画で、日本の伝統を堪能してください。 赤穂の獅子舞のダイナミックな動きに注目! 画像引用 :YouTube screenshot 新田日吉神社の秋の祭りは、毎年10月に兵庫県赤穂市で行なわれる、賑やかな祭礼です。 赤穂の秋祭りでは、新田西部獅子舞保存会による赤穂の獅子舞が、御囃子とともに市内を練り歩きます。 お祭りは動画の0:19よりご覧になれる神殿で行われる「神受け」から始まります。 こちらは、悪さをしている野獅子を鼻高(天狗)が巧みに操りながら導いている様子を表しています。 動画の0:41からご覧になれる「獅子頭・鼻高面・道具類のお祓い」が執り行われると、いよいよ兵庫県赤穂市内を練り歩く「花舞」に出発します。 こちらは動画の0:53よりご覧になれます。 日吉神社の獅子舞は、新田西部地区と新田居村が毎年交互に奉納しており、この動画は新田西部地区が当番の年になります。 鉦すりの音に合わせて「のみかみ」「むっくり」「ふりあげ」などの演技を市民に披露します。 この花舞は盆宮、宵宮の2回で200件以上を周ります。 この秋祭りの一番の見せ場は、動画の1:58からご覧になれる「道中舞」です。 日吉神社で神事が行われている間、獅子舞の一団は参道を少しずつ時間をかけて進みます。 神事が終わると、拝殿に駆け上がり、奉納舞が始まります。 赤穂の獅子舞は、尾崎地区の赤穂八幡宮の流れを組むもので、道中舞のときにはゆっくりとした動きを、本宮での奉納舞のときには激しい動きをするのが特徴です。 新田西部獅子舞保存会による奉納舞の後には、「にわか」という寸劇もある披露舞が行なわれます。 こちらは動画の2:55よりご覧になれます。 赤穂の秋祭りにはたくさんの見どころがある 画像引用 :YouTube screenshot 赤穂の秋祭りでは、新田西部獅子舞保存会による獅子舞奉納の他に、御祓いの神事や子ども神輿など、さまざまな催しが行なわれます。 また、新田西部獅子舞保存会以外にも、多くの赤穂の獅子舞が登場しますよ。 花舞や班舞で知られる、上浜市獅子保存会の獅子舞や、御祓いや五穀豊穣を願う木津獅子保存会の獅子舞もぜひ見ておきたいですね。 赤穂の秋祭りが行なわれる時期には、神社や寺院の沿道にたくさんの屋台(夜店・露店)が立ち並びます。 屋台で地元名産のグルメや、日本らしいお祭りグルメをいただくのも、赤穂の秋祭りの楽しみ方の1つといえるでしょう。 新田西部獅子舞保存会による赤穂の獅子舞紹介まとめ 赤穂の獅子舞は、新田西部獅子舞保存会が古くから技芸を磨き、保存を続けてきた日本伝統の重要な神事です。 日本古来の祭礼には、伝統文化継承という重要な意味が込められています。 動画でご覧いただいたような、勇壮な赤穂の獅子舞を実際に見て、日本文化を感じたい方は、ぜひ赤穂の秋祭りに足を運んでみましょう。 【公式ホームページ】赤穂観光 FEEL AKO TIME http://ako-kankou.jp/ -
動画記事 2:41
東京国立博物館の歴史ロマンを感じる埴輪や土器、銅鐸や土偶の数々を要チェック!なんと12万点が収蔵されている日本最大規模の東京都台東区の博物館で新たな発見!
歴史- 102 回再生
- YouTube
東京都台東区「東京国立博物館」展示の埴輪や土器の動画紹介 こちらは「brianman1955」が制作した動画「埴輪・土器・銅鐸・遮光器土偶 東京国立博物館」です。 東京国立博物館とは、東京都台東区の上野恩賜公園内にある日本最古の博物館で、かつては帝国博物館または帝室博物館とも呼ばれました。 本館や表慶館、東洋館や平成館、法隆寺宝物館、黒田記念館、旧因州池田屋敷表門(黒門)や庭園といった施設で構成されます。 東京国立博物館内では日本刀をはじめとした刀剣や甲冑、考古遺物といった国宝や重要文化財を含む美術品が展示公開されています。 その収蔵品の総数はなんと12万点近いのです。 2019年には正倉院展、高御座、ミイラなどの特別展も行われ見どころも満載です。 動画で紹介されている正装の女子とはどんな埴輪? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の冒頭から紹介されているのは、群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土・東京国立博物館所蔵の埴輪「正装の女子」です。 この埴輪は裳状のスカートや簡袖の上着を着ており、玉類を連ねた耳飾り、首飾り、腕飾りで飾られています。 髪は島田髷を結い額に堅櫛を挿しています。 装飾されたこの埴輪は古墳時代のものと考えられる貴重なものです。 動画で紹介されている片口付深鉢形土器とはどんな土器? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:42から紹介されているのは、埼玉県ふじみ野市福岡の上福岡貝塚出土の片口付深鉢形土器です。 この土器は、1937年に山内清男氏によって発掘され、調査の結果縄文時代前期関山式土器と推定されています。 動画で紹介されている銅鐸とはどのようなアイテム? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の1:06から紹介されているのは、和歌山県みなべ町西本庄出土の銅鐸で、弥生時代と推定されます。 この時期の銅鐸は大型化し、吊り下げて鳴らす鐘としての機能はありませんでした。 装飾性の高い銅鐸は祭器として使われていたと考えられます。 動画で紹介されている遮光器土偶とはどんな土偶? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の1:50から紹介されているのは、宮城県大崎市田尻蕪栗字恵比寿田出土の遮光器土偶。 縄文時代晩期には東北地方で土偶が盛んに作られたといわれます。 東京国立博物館の埴輪や土器の動画まとめ 写真:東京国立博物館 ご紹介した東京国立博物館の動画はたった2分40秒ほどですが、紹介されている埴輪や土器からは歴史のロマンが伝わってきます。 動画にある埴輪や土器以外にも、東京国立博物館の常設展や特別展などでは貴重な資料、図録、研究誌が多く展示公開され、さまざまな調査研究も進められているので、ぜひ足を運んでみましょう。 ◆東京国立博物館 施設概要情報◆ 【住所】〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9 【交通アクセス】JR上野公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分(展示を見る場合は正門より入場)。または台東区循環バス「東京国立博物館」下車。 【入館料金】一般1000円、大学生500円(※2020年4月時点) 【休館日】月曜日 【駐車場】無し 【電話番号】03-3822-1111 【公式ホームページ】東京国立博物館 https://www.tnm.jp/ 【トリップアドバイザー】東京国立博物館 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g14134278-d320638-Reviews-Tokyo_National_Museum-Uenokoen_Taito_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html -
動画記事 5:23
北海道函館市の五稜郭は星型に作られた珍しい城塞!北海道有数の人気観光スポットの五稜郭の歴史、見どころを余すことなく紹介!
歴史 観光・旅行- 242 回再生
- YouTube
函館にある五稜郭の観光動画をご紹介! こちらは、北海道函館市にある歴史的建造物の五稜郭(ごりょうかく)を紹介した動画「函館 「五稜郭」 Goryokaku, Hakodate」です。 動画の冒頭からご覧になれるように、函館の五稜郭は美しい星型の構造をもつ城塞が特徴的。 動画の1:34から紹介されている五稜郭タワーの展望台に上れば、五稜郭公園をぐるりと囲むようなインスタ映えする星型の水堀を一望できますよ。 動画で紹介されている函館の五稜郭とはどんな観光スポット? 写真:五稜郭 五稜郭は、幕末に箱館奉行所を守るため、江戸幕府によって当時の蝦夷地に作られた城郭です。 稜堡式(りょうほうしき)とも呼ばれる星型の五稜郭を設計したのは、動画の1:54で紹介されている武田斐三郎。 五稜郭は築城中には亀田役所土塁または亀田御役所土塁、函館御役所とも呼ばれていました。 また、ネコヤナギが多く生えていたことから柳野城という異名もあります。 動画で紹介されている函館の五稜郭は重要な歴史の舞台となった! 写真:五稜郭の石垣 明治維新の頃に完成した五稜郭は、戊辰戦争の最後の戦いである箱館戦争(五稜郭の戦い)で旧幕府軍に占領され本拠となった歴史をもちます。 今も動画の1:22にあるような土塁や石垣、石碑が残ります。 五稜郭は明治期には陸軍の練兵場としても使われました。 幕末からたびたび歴史の舞台となってきた五稜郭。 1988年には「五稜郭」というテレビドラマも作られました。 国の特別史跡である五稜郭は、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産にも指定されています。 現在は国有財産として函館市が管理しています。 動画で紹介されている函館の五稜郭の見どころをチェック! 写真:五稜郭・冬のライトアップ 動画の1:47からご覧になれるのは、2010年に復元された奉行所です。 動画の2:33からは奉行所内の様子がご覧になれ、大広間や中庭を見学したり、歴史資料の展示を見たりすることができます。 五稜郭公園では期間限定のライトアップも開催されるので、イベントの時期を狙って訪れるのもおすすめです。 函館五稜郭の紹介動画まとめ ©Goryokaku-Tower 改変 動画で紹介されている五稜郭では、5月頃の桜の時期、10月頃の紅葉の時期、冬場の雪景色など四季折々の風景も堪能したいもの。 函館では五稜郭の他にも、函館山から夜景を見たり、名物の函館ラーメンを食べたりといった楽しみ方がありますよ。 ちなみに、長野県佐久市の龍岡城も五芒星型の設計になっているのでぜひこちらもチェックしてみてください。 ◆五稜郭・五稜郭公園 施設概要紹介◆ 【住所】北海道函館市五稜郭町44番 【交通アクセス】JR函館駅から車、タクシー、バスで15分 【駐車場】無し 【公式ホームページ】五稜郭公園 https://www.hakodate-jts-kosya.jp/park/goryokaku/ 【トリップアドバイザー】五稜郭公園 https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298151-d1439713-r68353674-Goryokaku_Park-Hakodate_Hokkaido.html -
動画記事 1:10
縄文時代の暮らしが体験できる長野県諏訪郡の井戸尻遺跡!集落遺跡で発掘された竪穴式住居を空から見て当時の暮らしを想像してみよう!
歴史- 208 回再生
- YouTube
長野県諏訪郡「井戸尻遺跡」竪穴式住居の動画紹介 こちらは「Solar Kanki」が制作した「井戸尻遺跡 竪穴式住居」は、長野県諏訪郡富士見町にある井戸尻遺跡の竪穴式住居をドローンにより上空からの撮影された動画です。 国の史跡を美しい映像でご覧になることができます。 自然の緑と茅葺屋根の色のコントラストも美しく、歴史好きや自然の映像が好きな人には必見の動画になっています。 こちらの記事では、竪穴式住居がある井戸尻遺跡の魅力を紹介します。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡とは 写真:井戸尻遺跡 竪穴式住居がある長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡は、江戸時代の集落遺跡で歴史好きには必見のスポット。 1966年に国の史跡(井戸尻史跡公園)に指定されています。 史跡指定を受けた際の石碑も公園内にあります。 井戸尻遺跡の周辺には八ヶ岳の湧き水を求めて作られた多くの遺跡があります。 今までは縄文時代は狩猟採集をしていると言われていました。 それが、長野県諏訪市出身の考古学者により、縄文時代の狩猟採集に異議を唱えたのです。 井戸尻遺跡を始め、中央高地の縄文遺跡の研究から、縄文時代も田畑を耕して生活していたのではないかと新しい説を唱えています。 竪穴式住居とは 画像引用 :YouTube screenshot 竪穴式住居とは、地面に円形や方形の穴を掘り、複数の柱を立て、骨組みを造り、土や葦などで屋根や外壁を造った建物のことです。 風情のある外観は、見ているだけで心が和やかになります。 こちらの動画の0:06よりご覧になることができます。 ヨーロッパでは中石器時代から竪穴式住居の形態の建物が出現しています。 新石器時代になると世界各国でこのような住居で生活するようになり、普及していきます。 日本では旧石器時代後期から造られ始めたと言われています。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡の見どころ 画像出典 :【公式ホームページ】富士見町 井戸尻遺跡のすぐ近くには、多数の重要文化財を展示している施設の井戸尻考古館・民俗資料館があります。 井戸尻や曽根などの出土土器や藤内遺跡出土品、坂上遺跡出土品、水煙渦巻文深鉢など約2,000点の文化財である出土遺物が展示されています。 井戸尻遺跡で発掘された住居跡地から竪穴式住居も移設され、細部まできちんと再現されています。 竪穴式住居も内部を見学することもでき、昔の生活に欠かせなかった囲炉裏を見ることができます。 また、縄文時代の住居、食物、衣類、土偶なども展示されています。 鑑賞していると、当時の生活を想像することができますよ。 古代グッズ作り手作り弓矢体験などのイベントも過去には開催されていました。 遺跡周辺は自然が豊富で、田んぼ、蓮、スイレン、アヤメなどを見ることができ、日本らしい風景を見たい人にもおすすめの場所です。 井戸尻遺跡内にある竪穴式住居も美しい緑の中にあり、インスタ映えスポットです。 こちらの動画の0:06よりご覧になることができます。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡の記事のまとめ 写真:井戸尻遺跡の水車 「Solar Kanki」が制作した、「井戸尻遺跡 竪穴式住居」は、昔の住居である竪穴式住居を空撮している動画です。 井戸尻史跡公園の美しい映像に心奪われるはずです。 井戸尻史跡公園内には水車小屋や田んぼなど心癒される風景が広がっています。 気になる方はチェックしてみてください! ◆井戸尻遺跡・井戸尻考古館 施概要紹介◆ 【住所】長野県諏訪郡富士見町境7053 【交通アクセス】JR中央本線信濃境駅下車 徒歩15分。 【入館料金】一般大人300円、一般小人150円(2020年4月時点) 【営業時間】9:00~17:00 【休館日】月曜日・祝日の翌日・年末年始 【駐車場】有り。普通車40台 【電話番号】0266-64-2044 【公式ホームページ】井戸尻考古館ホームページ https://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html 【トリップアドバイザー】井戸尻遺跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1120579-d12572092-Reviews-Idojiri_Archeological_Site-Fujimi_machi_Suwa_gun_Nagano_Prefecture_Koshinetsu_C.html -
動画記事 17:00
再生回数600万回!ノスタルジックな東京の風景を貴重な映像で楽しむ!戦後から復興した日本の原点がここにある!
生活・ビジネス- 179 回再生
- YouTube
1966年の東京の姿を動画紹介 こちらで紹介する動画は「MichaelRogge」が公開した「Everyday life in bygone days in Tokyo, 1966 昭和東京」です。 動画で紹介されている1966年(昭和41年)というのは日本がようやく戦後の痛手から立ち直り、1964年の東京オリンピックという一大国際スポーツイベントを大成功のうちに終え、世界に向けて復興を高らかに宣言した直後の年です。 今回はその昭和41年当時の東京を写した貴重な動画を紹介します。 ノスタルジックな感じが満載ですが、東京からは焼け野原と化した戦争の痕跡は消え、高度成長期と呼ばれる経済発展の波の中で庶民の家庭にも三種の神器と言われた「冷蔵庫」「テレビ」「洗濯機」の普及がかなり進んでいることや日本人の食事が和食から洋食に移り変わっていったことも映し出されていて興味深いですね。 1966年の東京の生活 街並みを見ると道路の一部には中央分離帯もなく、バイクもノーヘル、と時代がとてもおおらかだったことを物語っています。 買い物もスーパーやコンビニエンスストアはこの当時は一般的ではなく、商店街が庶民の生活の中心でした。 平屋建ての一軒屋と髪を結い上げ和服に割烹着姿のお母さんという姿も昭和の庶民生活を象徴する風景です。 そして、ちょうど昭和40年代ころから急速に核家族化が始まり、動画のように家にはお父さんとお母さん、そして子供が2〜3人という家族構成が一般的になりました。 この後昭和40年代後半から核家族化の加速による急激な世帯数増加によって東京郊外の至るところに新興住宅地と呼ばれる団地の建設ラッシュが始まります。 労働力にも変化が現れ、土木関係に従事する肉体労働者や商店などの個人経営から工場勤務やサラリーマンへの労働人口のシフトが始まり、職種の多様化による生活様式の急変というのも昭和40年代の特徴と言えるでしょう。 1966年の出来事 それでは昭和41年にどのような社会現象が起こりどんなものが流行したのかを振り返っていきましょう。 ・敬老の日、体育の日が制定される ・東京武道館にビートルズ来日 ・日本の総人口がはじめて1億人を超える ・クイズブーム到来 ・メートル法完全施行 ・東京国立劇場こけら落とし ・全日空ボーイング727型機が東京湾に墜落。日本初の大規模な航空事故となる ・ミニスカートやロングブーツ、サマーセーターやタートルネックなどニット製品が大流行 ・日産サニー、トヨタカローラが誕生 ・「こまっちゃうな」や「しあわせだなぁ」などが流行語になる ・新三種の神器「カラーテレビ」「自動車」「エアコン」が話題になる 今では当たり前となったメートル法や自動車、エアコンなど現代文化がこの時代に生まれたのです。 ノスタルジックな東京の風景紹介まとめ 最後に動画を見て令和元年と昭和41年の東京を比較して変わらないなと思う風景がラッシュ時の殺人的な電車の混み具合です。 これが一番日本文化の中心地「東京」をイメージする風景かもしれません。 -
動画記事 9:15
鑑真建立の奈良県の世界遺産「唐招提寺」を動画で堪能!国宝「金堂」は奈良時代から現在までそのままの姿を伝える!貴重な伽藍をご紹介
観光・旅行 伝統文化 芸術・建築物 歴史- 113 回再生
- YouTube
鑑真建立の唐招提寺動画紹介 この記事は『channel WASABI|和作美』さん制作の『【奈良/世界遺産】唐招提寺/鑑真建立の古社(解説編) -Toshodai-ji Temple in NARA, JAPAN (Commentary edition) -』という動画をご紹介します。 奈良の「唐招提寺」とは 写真:奈良県奈良市・世界遺産唐招提寺の石碑 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある寺院。天平宝字三年(759)年に鑑真和上(がんじんわじょう)が建立され1300年の歴史のある古寺で、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 境内には天平文化を伝える国宝や重要文化財の建物が多くあり、唐招提寺は世界遺産に指定されています。 唐招提寺を建てた人「鑑真」について 唐招提寺を建立した鑑真は、中国が唐と呼ばれる時代の高僧。奈良時代、約11年間に5回にわたり渡航の失敗を繰り返し、苦労の末に日本にやってきました。日本に渡ってきたときにはすでに鑑真は66歳になっていました。 来日後5年は東大寺で過ごし、日本の律宗の祖として、戒律の確立を行いました。そして、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きます。それが「唐律招提」です。その後、鑑真を支持する人により金堂などの多くの建物が建てられ、唐招提寺となりました。 境内の御影堂(みえいどう)には鑑真和上坐像(国宝)があり、6月に扉が開かれて毎年特別公開が行われています。また、東山魁夷が10年もの歳月を費やし完成させた圧巻の障壁画も同時に公開されます。 唐招提寺の金堂について 写真:奈良県奈良市・唐招提寺 南大門の先にある金堂(国宝)は、奈良時代の大規模な仏殿木造建築を今に残す唐招提寺の代表的な建物。本堂の中央には3mを超える座像の「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」、右には「薬師如来立像」、左には「千手観音立像(すべて国宝)」が安置されています。 動画では、迫力のある荘厳な金堂がご覧いただけます。 【動画】1:13〜 唐招提寺の金堂 唐招提寺の金堂以外の見どころ 写真:奈良県奈良市・唐招提寺の講堂 世界遺産の唐招提寺には、多くの貴重な伽藍があり、国宝が並ぶ景観を写真に撮ればインスタ映えも狙えます。 唐招提寺を訪れると、まず南大門があり、その先に現れるのが金堂。金堂と講堂の間に位置するのが2階建ての鼓楼です。石段が鎌倉時代から残されている戒壇の横には、鑑真が持ち込まれたと言われる蓮池があり、前述の御影堂、高床式の経蔵・宝蔵などが建ちます。 弥勒如来像が安置されている講堂はこちらでご覧いただけます。 【動画】6:42〜 講堂 また唐招提寺では、年間を通して様々な行事が行われています。特に知られているのが、鼓楼から数百本のうちわがまかれる「うちわまき」。うちわを授かることは、病魔退散や魔除けのご利益があるとか。 毎年、大悲菩薩覚盛(だいひぼさつ・かくじょう)上人の命日に執り行われる中興忌梵網会の後にうちわがまかれます。当日にうちわまき参加券を配布されるとのこと。 唐招提寺まとめ 日本を代表する寺院の唐招提寺の厳かな魅力を伝える動画はご覧になりましたか?1998年に奈良の文化財として、ユネスコにより世界遺産にも登録されている「唐招提寺」。多くの国宝・重要文化財を有する見どころたっぷりの唐招提寺にぜひ訪れてみてくださいね。 ◆唐招提寺◆ 【住所】奈良県奈良市五条町13-46 【電話番号】0742-33-7900 【参拝時間】8:30~17:00(受付は16:30まで) 【拝観料(個人)】大人・大学生 1000円、高校生・中学生 400円、小学生200円(令和4年5月20日時点) 【交通アクセス】 最寄り駅:近鉄西ノ京駅 奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」 【駐車場】あり(有料) 【公式ホームページ】唐招提寺 https://www.toshodaiji.jp/ 【トリップアドバイザー】唐招提寺 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298198-d319882-Reviews-Toshodai_ji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html -
動画記事 4:48
迫力ある弓矢の演武から目が離せない!薩摩日置流腰矢組弓の弓術は戦国時代の戦場では 鉄砲に劣らぬ活躍をした歴史的武術!
祭り・イベント 歴史- 1.09K 回再生
- YouTube
薩摩日置流(へきりゅう)腰矢組弓の動画をご紹介 こちらの動画「Koshiya Kumiyumi, Battlefield Archery Demonstration (薩摩日置流腰矢組弓 演武)」は、世界弓道大会における和弓の演舞の様子を撮影した動画です。 日本の歴史における戦国時代の戦場では、武術の1つとしてたびたび弓術が用いられました。 動画には、迫力たっぷりな競技の様子が記録されているので、ぜひ伝統の日本文化を感じ取ってみてくださいね。 動画で紹介されている薩摩日置流腰矢組弓とは?起源・歴史を紹介 写真:日本の弓術 和弓の流派の1つである薩摩日置流は、日置弾正政次が室町時代に確立しました。 しかし、戦闘に鉄砲が使われるようになると、弓術は次第に軽視されるようになります。 この頃から薩摩日置流では、高弟に技術を伝承させながら、さらなる弓術の研究を重ねました。 隊形を作ってから一斉に弓を放つ腰矢や指矢、押詰や突撃といった戦法を考案しました。 薩摩日置流から派生した諸派について 日置流は弓道の元祖ともいえる存在で、戦国時代以降の日本に強い影響をもたらします。 戦国時代以降は日置流から派生した弓術諸派に分かれていき、現在に至ります。 主要な流派は大和日置系統(吉田流)の出雲派、山科派、左近右衛門派、大蔵は、印西派、大心派、寿徳派、雪荷派、道雪派などです。 また、伊賀日置系統の流派には竹林派、一貫流、本多流があります。 また、薩摩日置流印西派浦上系や、薩摩日置流印西派摂津系、日置當流や逸見流といった流派も活躍しています。 薩摩日置流腰矢弓組では、手の内の整え方や働かせ方を重視し、打ち起こしの動作をして弓を斜め前方に構え、引き取るという射法が基本です。 それぞれの流派には、射法や所作に特徴があります。 動画でご覧になれる薩摩日置流腰矢組弓の演武紹介 画像引用 :YouTube screenshot 動画では9人の甲冑をまとった演者が弓道場に入場するところから始まります。 多くの観客が見守っているのも、動画からお分かりになれます。 動画の0:37より、大きな掛け声と共に次々と弓を放っていきます。 動画の2:08から紹介されている演舞では、弓を放った後に、徐々に前へ距離を詰めていく様子がご覧になれます。 編隊を組んで弓を放つ演舞は、戦場での実戦に基づくものなのでしょうね。 薩摩日置流腰矢組弓演舞の動画まとめ 弓道は、戦国時代に発展した日本ならではの武術・武道の1つです。 動画には、迫力ある薩摩日置流腰矢組弓の演武の様子が、余すことなく紹介されています。 日本の武道に興味がある方は、歴史を感じさせる鎧をまとって、弓を放つ様子が収められたこの動画で、日本文化の魅力を存分に感じ取ってみてくださいね。 -
動画記事 3:29
伝統工芸品「駿河竹千筋細工」まさに芸術品!繊細優美な竹細工を作り出す静岡県静岡市の職人の凄技を動画で!
伝統工芸 歴史 生活・ビジネス- 443 回再生
- YouTube
伝統工芸品「駿河竹千筋細工」、静岡県静岡市の職人技動画紹介 こちらは、伝統工芸品を取り扱う青山スクエアによって作られた、駿河竹千筋細工(するがたけせんすじざいく)のプロモーション動画です。 駿河竹千筋細工は、竹ひごを1本ずつ組み上げる匠の技で花器や虫かご、手提げなどに仕上げていく伝統工芸です。 近年ではバッグや風鈴といったモダンなアイテムも多く作られ、人気を集めています。 今回は、文化的価値の高い日本伝統工芸品、駿河竹千筋細工について動画とともに詳しくご紹介いたします。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」の歴史 ©SUN 改変 静岡県の駿河地域には昔から良質な竹が生えていたことから、竹細工製品が生活用品として広く使われてきました。 その起源はとても古く、この地域にある弥生時代の登呂遺跡からも竹製品のザルやカゴが出土しているのだそうです。 江戸時代になると、竹工は武士の内職として定着しました。将軍職を退いた徳川家康が駿府城に住んだこともあり、駿河地区には竹細工職人による地域文化が築かれました。 駿河竹千筋細工は1976年に通産省指定伝統工芸品の指定を受けています。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」の作り方は? 画像引用 :YouTube screenshot 伝統工芸の駿河竹千筋細工の工程は大きく分けて「ひご作り」「輪作り」「編み」「組み立て」の4つです。 原料には真竹か孟宗竹(もうそうちく)を使い、これを削り分けて「ひご」を作っていきます。他地域の竹細工では平ひごを使いますが、駿河竹千筋細工は丸く削り出した丸ひごを使います。 材料になるひごを、独特の曲げの手技を使って輪のように曲げ、つないで編み上げる技法で作ります。 1人の職人が竹の削り出しから仕上げまでを一貫して行なうものが、駿河竹千筋細工の特徴です。 動画でも0:25過ぎより詳しい「駿河竹千筋細工」の制作過程が紹介されていますので、駿河竹千筋細工職人の杉山貴英さんの技をご堪能ください。 駿河竹千筋細工にはどんなものがある? 画像引用 :YouTube screenshot 駿河竹千筋細工ではさまざまな種類の作品を作り上げることができます。 おもてなしに活用できる花器や菓子器、茶托や小物入れのほか、まるで芸術品のような行灯・灯りなどの照明や風鈴・置き風鈴、虫かごなどもあります。 和の雰囲気がステキな手提げバッグも人気です。 これらの商品はamazon(アマゾン)や楽天市場などの通販でも購入することができ、お値段や料金は商品により異なりますが数千円から数万円となっています。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」紹介動画記事まとめ 動画でも紹介されているように、駿河竹千筋細工は職人が1つずつ手仕事で生産する昔ながらの伝統工芸品。 動画を見て素晴らしい日本文化を生活に取り入れたいと感じた方は、ぜひ伝統工芸品である駿河竹千筋細工の製品を購入してみてくださいね。 お土産やプレゼントにも喜ばれると思います。 【公式ホームページ】駿河竹千筋細工みやび行燈 http://miyabiandon.shop-pro.jp/ 【公式Hホームページ】駿河竹千筋細工「静岡竹工芸協同組合」 http://www.takesensuji.jp/ 【公式ホームページ】伝統工芸青山スクエア https://kougeihin.jp/ -
動画記事 3:26
長野県飯田市の大平宿には古きよき日本の原風景が残る人気スポット!大平宿が作られた歴史や衰退した経緯、そして宿泊施設として保存される現在の姿を追う。
歴史- 259 回再生
- YouTube
長野県飯田市「大平宿」観光動画紹介 まずはこちらの「ひろくん起稿」が制作した動画【江戸時代の町並みが残る長野県「大平宿」】をご覧ください。 まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようなこの動画。 こちらは長野県飯田市にある大平宿(おおだいらじゅく)と呼ばれる観光スポットです。 大平宿とは何?歴史は?この記事では人気観光スポットの大平宿のご紹介をいたします。 長野県の大平宿はなぜ作られた?その歴史とは 画像引用 :YouTube screenshot 長野県の大平宿は、中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ大平街道の中間地点にかつて存在していた宿場町です。 宝暦4年 (1754年)にお椀やお盆等の木工品を加工、製造する木地師の大蔵五平治と、穀商人山田屋新七が移り住んだことからこの地の歴史が始まります。 動画でご覧になれるように、この地域には現在でも江戸時代末期から明治時代にかけての古い建物が多く現存しています。 伊那谷と木曽谷の間には木曽山脈がそびえており、かつては権兵衛街道を経由して奈良井宿へ行く方法しかありませんでした。 大平街道は、江戸時代中期に伊那谷から中山道へ至る妻籠宿(つまごじゅく)を結ぶため、飯田藩の許可によって開墾が進められました。 長野県の大平宿が衰退した理由とは? 画像引用 :YouTube screenshot 長野県の大平街道が開通すると、元善光寺参りの参拝者が立ち寄る茶屋宿として栄えるようになりました。 明治期には大平第三番小学正道学校や大平郵便局なども設置され、明治末期には中央本線の開通によって物流の要所となりました。 しかし昭和期には清内路村の清内路峠を超える国道265号が開通し、さらに林業も衰退し大平宿の利用者は減少しました。 平成期には前沢荘などが大火災で焼失しました。 動画で紹介されている現在の長野県大平宿の様子とは? 画像出典 :大平宿をのこす会 | 江戸時代の古民家に泊まろう 動画の1:47にあるように、大平宿の住民は昭和45年に集団移住を決定しました。 集団移住集落である大平宿は、廃村となった後に「いろりの里」として観光客が自然体験を楽しめる地に生まれ変わりました。 現在ではNPO法人大平宿を残す会や南信州観光公社の管理により、大平宿の丸三荘は現在でも古民家宿泊施設として活用されています。 集団移住集落を宿泊施設として利用することにより、この貴重な財産を再生・保存をするという目的があります。 一般的な宿泊施設とは異なり、必要なものは自分で用意し、民家の薪や炭で囲炉裏や窯を使って自炊し、退去時には掃除も行います。 大平宿では釣りや自然体験のイベントも不定期で開催されています。 近隣には大平台温泉や観光客向けのホテルなどもあります。 動画では一部朽ち果ててはいますが、当時の日本の暮らしが想像できる様々な古民家が全編に渡り紹介されています。 長野県の大平宿の動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 大平宿周辺は夏は涼しく爽やかで、冬場は雪の風景が楽しめる人気の観光地。 昔ながらの民家が残るこの地では、自然溢れるインスタ映えする風情ある写真が撮れるかもしれません。 動画にあるような古きよき山里の雰囲気を楽しみたい方は、長野県の大平宿周辺へ出かけてみてはいかがでしょうか。 ◆大平宿 施設概要紹介◆ 【住所】〒395-0045 長野県飯田市上飯田7929 【交通アクセス】中央自動車道 飯田ICより車で60分。※バス電車などの公共交通機関はありません。 【宿泊料金】1人 2,300円 【駐車場】あり 【電話番号】南信州観光社 0265-28-1747 【公式ホームページ】南信州観光公社 https://www.mstb.jp/ 【トリップアドバイザー】大平宿 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1021319-d7037774-Reviews-Odairajuku-Iida_Nagano_Prefecture_Koshinetsu_Chubu.html -
動画記事 4:35
青森県青森市の特別史跡「三内丸山遺跡」は日本最大級の縄文時代の遺跡!見どころが詰まった動画で歴史ロマンを堪能しよう
歴史- 152 回再生
- YouTube
青森県青森市の特別史跡「三内丸山遺跡」動画紹介 こちらで紹介する「marugotoaomori」が制作した「【青森の魅力】特別史跡三内丸山遺跡 - 地下に真実 地上にロマン」は、青森県にある大規模な縄文時代の集落跡を撮影したものです。 集落跡に加えて、さまざまな出土品やイベントなど、歴史を学べる素晴らしい観光施設になっています。 この記事では、青森市にある特別史跡三内丸山遺跡の魅力を紹介します。 特別史跡三内丸山遺跡とは 写真:三内丸山遺跡 特別史跡三内丸山遺跡は、青森県青森市にある日本で最大級の縄文時代の遺跡です。 今から約5,900年前から約4,200年前の縄文時代の前期から中期の大規模な集落跡です。 縄文人が約1,000年の間定住していたと言われています。 復元大型竪穴建物や復元大型掘立柱建物などの復元建物を見ることもでき、当時の暮らしを想像できます。 こちらの建築物は動画の0:41よりご覧になることができます。 復元建物以外にも、さまざまな発掘品もご覧になれます。 土器や土偶にアクセサリーなど当時の暮らしに欠かせなかった遺物が展示されています。 レストランや売店もあるので、休憩しながらいろいろなものを鑑賞できます。 交通アクセスは、JR青森駅から車で約20分。 市営バスで約30~40分です。 入場料は、一般が410円、高校生・大学生は200円、中学生以下が無料となっています(※2020年4月時点)。 特別史跡三内丸山遺跡で必ず見ておきたい復元大型掘立柱建物 画像引用 :YouTube screenshot 動画の1:08からご覧になれる復元大型掘立柱建物は巨大な柱が特徴の約15mの高さがある建物。 直径2mの大きな穴に栗の木を埋めて建てられました。 柱と柱の間隔はきちんと測って造られておりその長さは4.2m、長さの単位は35cmとなっています。 使用用途は不明で謎に包まれていますが、物見やぐら、灯台、神殿として使われていたのではないかとボランティアガイドは語ります。 縄文時代当時の高さは復元建物の15mより高く、約20mほどあったと言われています。 特別史跡三内丸山遺跡には六本柱建物跡以外にもさまざまな遺構が存在します。 一般の住民が暮らしていたといわれている竪穴式住居跡や、高床式建物であった可能性が高い掘立柱建物跡(高床式倉庫跡)などを見ることができます。 共同作業場や集会場として使われていたと思われる復元大型竪穴建物の内部も見学することができ、動画では1:00よりご覧になれます。 村の長の墓と言われている環状配石墓も見どころのひとつです。 特別史跡三内丸山遺跡の見どころ 画像引用 :YouTube screenshot 2:11からご覧になれる縄文の丘三内丸山まほろばパーク内にある「さんまるミュージアム」や縄文時遊館、三内丸山遺跡センターでは、特別史跡三内丸山遺跡から出土した遺物が約1,700点展示されています。 釣り針や魚の骨、イヤリングなどの装飾品を見ることができます。 縄文の人たちはさまざまな道具を使って農耕や食料を調達し調理をし、アクセサリーで自分を美しく飾るなど高い文化を持っていたことが想像できます。 青森市にある特別史跡三内丸山遺跡では、ものづくりができる体験工房もあります。 板状土偶づくりや再生琥珀のペンダントづくり、組紐体験などさまざまな縄文時代を楽しめるメニューが充実しています。 特別史跡三内丸山遺跡の記事のまとめ 画像引用 :YouTube screenshot 「marugotoaomori」が制作する、「【青森の魅力】特別史跡三内丸山遺跡 - 地下に真実 地上にロマン」は、青森市にある特別史跡三内丸山遺跡を紹介している動画です。 見晴台や物見やぐらの役割をしていたと想像できる約15mもある復興建物など、見どころがたくさんありますよ。 さまざまな遺構や出土品などが見られるので歴史好きには必見のスポットです! ◆特別史跡三内丸山遺跡 施設概要紹介◆ 【住所】〒038-0031 青森県青森市大字三内丸山305 【交通アクセス】JR青森駅から車で約20分 【入館料金】一般が410円、高校生・大学生は200円、中学生以下が無料(※2020年4月時点) 【営業時間】9:00~17:00 【休館日】毎月第4月曜日 【駐車場】500台あり 【電話番号】017-766-8282 【公式ホームページ】特別史跡「三内丸山遺跡」 https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/ 【トリップアドバイザー】三内丸山遺跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298241-d324336-Reviews-Sannai_Maruyama_Site-Aomori_Aomori_Prefecture_Tohoku.html -
動画記事 6:33
東北最大の城郭、山形市「山形城」は圧倒的な存在感と美しさ。600年以上守られてきた歴史ある国指定史跡へ探索の旅へ!
観光・旅行 伝統文化 芸術・建築物- 41 回再生
- YouTube
奥羽の名城、山形市「山形城」動画紹介 こちらは「channel WASABI|和作美」さんが公開した名城山形城を紹介する動画「【山形/日本100名城】山形城 - Yamagata Castle in YAMAGATA, JAPAN/The Top 100 Castles in Japan/No.10 -」です。 動画でご覧になれる国指定史跡の名城山形城は山形県山形市霞城町にあり東北最大の城郭を誇ります。 天守閣が無かった事でも知られる名城山形城は、1356年(延文元年)に羽州探題として山形に入った最上家の初代となる斯波兼頼(シバ カネヨリ)が築城したのが始まりです。 斯波兼頼とは、南北朝時代の武将で最上兼頼とも呼ばれました。 現在の城郭は第11代城主である最上氏が築いたものが原型で、1622年(元和八年)に最上氏の後に城主となった鳥居忠政によって、現在残っている二の丸の堀や土塁、石垣が整備されました。 鳥居忠正は、徳川家の家臣であり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将であり大名です。 こちらの動画では、国の史跡山形城の魅力を素敵な音楽と共にご覧になれます。 是非皆さまお楽しみください。 名城山形城の別名は? 日本100名城にも選ばれている山形城。 山形城は別名「霞城」「霞ヶ城」とも呼ばれています。 この名前の由来は北の関ケ原とも言われる「慶長出羽合戦」の際に、城郭が霞で隠れて見えなかったことから、こう呼ばれるようになったと地元では語り継がれています。 山形城と最上家の歴史 写真:山形城の最上義光騎馬像 江戸時代に活躍した11代目城主「最上義光」は、五十七万石の領地を認められ、山形城と城下の整備に力を入れます。 最上義光とは山形城を築城した最上家の初代「斯波兼頼」の子孫で、初代山形藩主です。 馬にまたがる勇敢な姿の最上義光騎馬像はこちらの動画で2:52からご覧になれます。 最上義光の時代に城郭は拡大され、三の丸には上級と中級の家臣の屋敷が、城外には下級家臣の屋敷や寺院が配置されました。 東北最大の城郭を持つ山形城と城下町の原型の誕生です。 最上義光の死後、山形藩は鳥居忠正による統治となり大規模改修が始まります。 度重なる城主の交代により、江戸時代に山形藩の政庁が置かれ「最上家、五十七万石」を誇った石高も幕末には五万石までに減少し、維持することが難しくなっていった山形城は荒廃していきます。 国の史跡として変化し続ける山形城 写真:山形城の二の丸東大手 山形城跡の本丸と二の丸は都市公園として整備され、三の丸の一部と共に1986年(昭和61年)国の史跡「霞城公園」に指定されています。 霞城公園内には動画の3:27よりご覧になれる旧済生館病院本館が重要文化財として保存されており、山形県立博物館や山形美術館、最上義光歴史館もあります。 江戸城の門にも匹敵するといわれる「二の丸東大手門」「高麗門」、「楼門」「北櫓」「続櫓」「大手橋」、動画の4:17よりご覧になれる「「本丸一文字門」」などが次々に修復され、現在でも修復作業は進められています。 城郭が荒廃する哀れな姿を晒していた、かつての山形城の姿はもうありません。 今では日本を象徴する「ソメイヨシノ」が咲き誇る桜の観光名所ともなり、春の開花時期に合わせて開催される「霞城観桜会」では約1,500本もの桜がライトアップされます。 日本の歴史公園100選、また2006年(平成18年)には日本100名城にも選ばれ、御城印スタンプも設置されています。 名城山形城紹介まとめ 写真:山形県山形市山形城跡・霞城公園の桜 最上氏や鳥居氏、山形市によって長い年月をかけて整備され続けている歴史ある山形城は、多くの人の想いを見つめ続け愛されてきた名城です。 美しい石垣など堀の周りには豊かな自然が溢れています。 季節によって表情を変える自然の姿が鏡のように池に映り込み、訪れる人々を魅了します。 この動画では、日本の美しい四季を肌で感じられる山形城を身近に体感できるのです。 是非皆様日本の歴史をこちらの動画で感じてください。 ◆山形城の基本情報◆ 【住所】〒990-0826 山形市霞城町1番7号 【交通アクセス】 電車でのアクセス:JR山形駅より徒歩10分程度 車でのアクセス:山形自動車道山形蔵王ICより、約15分 【駐車場】無料(駐車台数230台うち身体障がい者等用駐車スペース5台、バス用駐車スペース5台) 【開園時間】5:00から22:00(4月1日~10月31日)、5:30分から22:00(11月1日~3月31日) 【入園料】無料 【休園日】年中無休 【公式ホームページ】国指定史跡 山形城 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kakuka/machizukuri/koen/sogo/yamagatajo/ 【トリップアドバイザー】山形城跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1023191-d1745658-Reviews-Yamagata_castle-Yamagata_Yamagata_Prefecture_Tohoku.html