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動画記事 3:26
100年前の日本人の服装、カラー化高画質動画で見る大正時代のまばゆい笑顔
歴史 生活・ビジネス- 532 回再生
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100年前の日本【大正時代】人々の笑顔の動画紹介 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、『笑顔のおっさんチャンネル A Smiley Daddy's Channel』さん制作の『100年前の日本人の笑顔【カラー化・高画質化】』という動画を紹介します。 動画で使用されているのは、約100年前の1914(大正3)~1918(大正7)年にかけて、製材機を日本に売りに来ていたアメリカ人、エルストナー・ヒルトン氏が撮影したものです。 この頃は、世界では第1次世界大戦が勃発しており戦火の中にありました。日本はその戦争景気に湧き、大正ロマンを謳歌している時代です。 そんな最中の日本人の笑顔の写真をカラー化・高画質化した動画をまずはご覧ください。 はじけるような笑顔を見せる大正時代の人々 画像引用 :YouTube screenshot 動画で登場するのは、第1次世界大戦と重なった時代を生きていた人々。今人気の「鬼滅の刃」の時代設定と同じ頃です。戦争の時代を生きる人々だからこそ、その笑顔はとても強くて印象深く感じますね。 動画には、様々な写真がカラー化されて映し出されます。次からは、その中でも印象的な写真を見ていきましょう。 普段着で作業や仕事をする大正時代の人々 画像引用 :YouTube screenshot わらじ作りや畑を耕す姿、米の収穫や籾の選別といった大正時代で働く男性や女性を映した写真の数々。野良着といわれる着物や、たすき掛けやもんぺをはくことで動きやすい服装に。 【動画】0:37~ わら三角帽子で畑を耕す男性 この時代に働く女性の多くは、手ぬぐいを頬被り(ほっかむり)にしていますね。 【動画】0:42~ 着物にほっかむりをした農家の女性 【動画】1:31~ たすき掛けをした着物で茶摘みのような姿の女性 【動画】2:43~ 籾の選別をする少女たち 夏には、半袖の着物を着ている姿が映しだされています。 【動画】2:25~ 夏の半袖の着物の女性、麦わら帽子と半ズボンの男性 花売りという写真には、2人の可愛い子供と花売りの男性が写っています。当時はこのように花を売り歩いていたこともわかりますね。 【動画】2:48~ 手押し車で売る花屋の男性と着物の子供たち 【動画】2:55~ カゴを持ち、着物にもんぺ姿の女性 行事やイベントでお出かけ着の女性や男性の服装 画像引用 :YouTube screenshot 新年の装いなどには、独身女性の正装とされる振袖姿、日本髪には髪飾りも。男性は羽織袴に山高帽やハンチングを被っています。 【動画】0:02~ 振袖姿の少女 【動画】0:07~ 新年の装い、振袖に日本髪の女性 【動画】0:48~ お茶会での女性の着物姿 何かを食べながら、楽しそうな若い女性たち。縦縞などの小紋の着物に、首元にはなぜか手ぬぐいをかけています。この頃の流行りなのでしょうか。 【動画】0:55~ 日本髪に髪飾り、首には手ぬぐいをかけたおシャレな女性たち 【動画】1:00~ 女性は髪飾り、男性は帽子が特徴のグループ写真 大正時代の子供の服装 画像引用 :YouTube screenshot いつの時代も子供の笑顔は素敵ですね。動画に登場する大正時代の子供たちの服装に注目してみましょう。 男の子は、絣の着物に草履をはいた姿が多く、着物を汚さないようにエプロン(前掛け)をしている子も。絣の着物や小紋でしょうか、着物と同柄の羽織りも着ている女の子も見られます。 【動画】0:15~ わらじ作りをする男性のそばに、絣の着物を着た女の子 【動画】0:21~ 男の子は着物にエプロン、女の子着物 【動画】1:13~ 仲良しの男の子たちの着物姿 【動画】1:26~ ツツジの前で着物姿の女の子 さまざまなシーンの服装、祭り・雨の日・夏・風呂 画像引用 :YouTube screenshot 雨の日の服装という写真は、当時の生活風景が分かる一枚。男性はこの時代でも蓑を使っていたことがわかります。 祭りで三味線を抱えて微笑む女性、片袖をぬいで少しくずして着物を着る姿が印象的です。解放感があるお祭りの雰囲気が伝わりますね。 【動画】1:19~ 三味線を持ち祭りに参加する女性 【動画】1:37~ 雨の日の服装、蓑を着る男性と傘をさす女性 【動画】2:13~ 夏の縁側で半袖の着物を着た女性 【動画】3:01~ 木桶風呂につかる女性 白黒の写真が美しい色彩でよみがえるカラー化技術 画像引用 :YouTube screenshot 動画内で紹介された写真は、白黒写真が使用されています。その白黒写真を、自然な発色の色彩写真に変換する技術によりカラー化されています。 このカラー化の技術は、早稲田大学理工学術院の石川博教授、飯塚里志研究院助教、シモセラ・エドガー研究院助教らの研究によって確立されました。この技術は、ディープラーニングと呼ばれるAI(人工知能)技術を応用したもので、対象の画像に自動着色を施すことでカラー化。白黒写真の他、様々な画像に自然な色付けが実現、彩色結果はユーザーのテストにおいて「約90%の色付け結果が自然である」という評価を受けているほどです。 これまでは、フィルムにカラー化を施したり、白黒写真に手作業で色をつけていたため、費用も決して安くはありませんでした。しかし現在は、この技術の開発により、インターネット上で無料配信されているアプリを利用し、白黒写真を撮影またはアップロードするだけでカラー化をすることが可能になっています。 100年前の日本人の服装と笑顔のまとめ 画像引用 :YouTube screenshot 100年前に撮影されたとは思えないほど美しい色彩が浮かび上がり、見る人の目を楽しませてくれます。カラー化技術は、古い写真を色鮮やかなものへと変換してくれる素晴らしい技術。古い家族写真や歴史的な写真も生き生きと蘇らせることができます。 100年前、大正時代を生きた日本人の笑顔がカラー化によって、まるで現代に生きる人々のかと錯覚するほど生き生きと写し出されています。カラーになると、服装の華やかさも増しますね。皆さんがお持ちの思い出の写真も、お手軽にカラー化することができるので、一度試してみてはいかがでしょうか。 -
動画記事 3:37
日本一の城と称された東京都千代田区にある「江戸城」の歴史を学ぶ!多くの古写真が物語る歴史的建造物は今もなお世界中の人に愛される名所
歴史- 769 回再生
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東京都千代田区「江戸城」動画紹介 こちらは「LIT esperan」が制作した『Edo Castle / Tokyo Imperial Palace in 1871 江戸城』で、江戸城をたっぷりの古写真で振り返る動画です。 江戸城は規模の大きさ、天守の高さ、御殿の大きさから「日本一」の城と言われています。 この記事では歴史や江戸城跡の観光スポットを動画に沿ってご紹介いたします。 江戸城は明治時代まで残されていたため、写真が多く残っている特徴があります。 まずは、動画でかつての江戸城の勇姿をご覧ください。 江戸城とは?その歴史は? 画像引用 :YouTube screenshot 江戸城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年に築いた平山城です。 その後、豊臣秀吉が開城し、江戸時代に徳川家康が増築・改築を行いました。 その結果、日本最大の面積の巨大城郭になります。 徳川幕府の政庁として使用された後、明治元年に明治新政府に明け渡され、明治2年に皇城となります。 こちらは「江戸城明け渡し」「江戸城無血開城」と言われます。 1888年には宮城となり、1948年に皇居と改称されました。 現在も江戸城跡の一部が天皇陛下のお住まい「皇居」として使用されています。 動画で紹介される江戸城に関連する場所はどこ? 写真:皇居・富士見櫓 動画のスタートは、高層ビルが建ち並ぶ東京にぽっかりと緑の空間が現れます。 ここが江戸城の内郭という城の中心部で、外側には外郭がありました。 動画の0:38から、浅草本願寺、浅草寺、桜田門、虎ノ門、富士見櫓、水道橋、新大橋と隅田川、日比谷門、浅草橋門、本丸大手門、坂下門、西ノ丸二重橋など現在もよく知られている人気スポットが古写真で紹介されます。 動画の途中には2:05から最後の徳川将軍の徳川慶喜公、1:33からは江戸城周辺の古地図や天守閣の図面も映されます。 江戸城の見学について 写真:皇居周辺 江戸城は東京都千代田区にあり、交通アクセスは、JR「東京」駅、東京メトロ・都営地下鉄「大手町」駅から徒歩約5分です。 江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部は、皇居東御苑として一般に開放されています。 北の丸は、北の丸公園になっていて、周辺は観光客やランニング(皇居ラン)する人が多く訪れます。 天守閣は3回建造されましたが焼失し、再建・再現が計画され天守台が積み直されたところで止まってしまいました。 残された江戸城天守台は現在も見学することができます。 皇居に訪れた際には城門の近くの大番所や、立派な石垣、広場にあった本丸御殿の「忠臣蔵」でおなじみの松之廊下跡や大奥、和田蔵門跡、和田蔵門跡、石室、松之廊下跡、中雀門跡を見学するのがおすすめです。 皇居見学ツアーもあるのでこちらに参加されるのも良いでしょう。 江戸城の紹介まとめ 写真:江戸城の天守台 こちらの『Edo Castle / Tokyo Imperial Palace in 1871 江戸城』は、明治時代初めごろの江戸城の多くの写真を紹介しています。 皇居部分については、宮内庁に参観申し込みをすることで見学することができます。 詳細については、宮内庁のホームページでご確認ください。 江戸城は、その大きさや築城期間の長さ、天守閣の高さなどの点で、日本一を誇ります。 江戸城の歴史や観光スポットについてご紹介したこちらの記事を読んで、江戸城に興味を持っていただけたら嬉しいです。 【トリップアドバイザー】皇居東御苑(旧江戸城本丸跡) https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1066443-d320625-Reviews-The_East_Gardens_of_the_Imperial_Palace_Edo_Castle_Ruin-Chiyoda_Tokyo_Tokyo_Prefe.html -
動画記事 2:31
100年前の日本では、庶民はどのように暮らしていた?第一次世界大戦中でもある大正時代の庶民の暮らしぶりを知ることができる、歴史的に貴重な写真の数々を紹介!
歴史- 9.22K 回再生
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大正時代の庶民の暮らしを写真でご紹介! こちらの動画『1914~1918(大正3年~大正7年)庶民の暮らしと「赤とんぼ」』には、大正時代の日本の人々の暮らしの様子が映されています。 写真を撮影したのは、アメリカ人営業マンのエルストナー・ヒルトンさん。 動画に使われているBGMは、日本の有名な童謡、作詞・三木露風、作曲・山田耕筰の「赤とんぼ」です。 戦争前や第一次世界大戦中には写真技術があまり発達していなかったため、この動画にまとめられた写真の数々はとても貴重です。 約2分半の映像で、現在へと受け継がれている日本の庶民の生活をご堪能ください。 写真で紹介されている、日本の大正時代とはどのような時代? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代とは現在から約100年前、大正天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間のこと。 この時期の日本では明治維新後に民主主義の発展を目指す「大正デモクラシー」が起こりました。 また、第一次世界大戦が起こったのも大正時代です。 大正時代はたった15年の短い時代ですが、日本近代史を語る上で欠かせない期間でもあります。 大正時代の庶民の服装や食文化、生活の様子とは? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代には洋服のファッションも登場しますが、庶民の多くはまだ着物を身につけて暮らしていました。 動画の1:16には川で着物を洗濯する女性の姿も映されています。 写真を見ても分かるように、男性は短髪、女性は1つにまとめた髪型にするのが一般的でした。 動画の0:28には、道端で占いをする易者の姿もあります。 0:35には伝統工芸品の籠を編む男性の様子が、0:44には日本伝統のダルマ作りも撮影されています。 その他にも動画では、当時の日本の生活の様子がわかる写真が次々と紹介されています。 動画の1:08に映っているのは、庶民の暮らしや食事作りに欠かせなかった囲炉裏(いろり)です。 冬にはこれで暖を取っていました。 また、1:56に紹介されているのは、猿回しと呼ばれる芸能文化です。 テレビやインターネットなどが無い当時の庶民の娯楽でした。 大正時代の庶民の暮らしを撮影した動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、大正時代の暮らしを撮影した写真を動画にまとめたものをご紹介しました。 貴重な写真の数々からは、当時の庶民がどのように生活していたのかをうかがい知ることができます。 紹介されている写真には、笑顔の人々がたくさん写っています。 大正時代には戦争が起こり、庶民は貧しい暮らしを余儀なくされましたが、人々の心は豊かだったのかもしれませんね。 -
動画記事 4:06
今なお人気を集める幕末の志士、坂本龍馬の生涯に迫る!坂本龍馬の生い立ちや活動内容を知れる貴重な展示品を一挙紹介!
歴史- 128 回再生
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坂本龍馬展の情報動画をご紹介! 今回ご紹介するのは「時事通信トレンドニュース」が公開した動画「暗殺の様子再現、坂本龍馬展=初公開の手紙など70点披露、人斬り以蔵の拳銃も」です。 こちらの動画では、ホテル雅叙園東京(東京都目黒区)で2017年に開催された「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」の様子が収められています。 このイベント「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」では、坂本龍馬の愛刀や手紙といった遺品がたっぷりと紹介されており、幕末ファン必見の内容となっています。 動画で紹介されている坂本龍馬とは? 画像引用 :YouTube screenshot 坂本龍馬は江戸幕府末期に活躍した土佐藩郷士。 本名を坂本直柔(なおなり)といい、誕生日は1836年1月3日。 脱藩後には志士として活動し、勝海舟と師弟関係を結び、亀山社中(のちの海援隊)を結成しました。 坂本龍馬のエピソードとしては、間一髪で難を逃れた寺田屋事件や、薩摩藩と長州藩の間を坂本龍馬が取り持った薩長同盟がよく知られます。 坂本龍馬の生涯は、「龍馬伝」をはじめ多くの大河ドラマで再現されています。 また、近年では幕末を題材にした歴史ドラマ「仁」も人気を集めました。 動画で紹介されている「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」とは? 画像引用 :YouTube screenshot 動画で紹介されている「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」は、2017年に高知県にある坂本龍馬記念館の改装工事期間中に、収蔵品を東京会場に移して展示しました。 東京都有形文化財「百段階段」に展示されたのは、坂本龍馬愛用の脇差しや、土佐藩・後藤象二郎に宛てた書簡「越行の記」など。 また、姉の乙女が締めた帯、人斬り以蔵の異名をもつ岡田以蔵の拳銃なども紹介されています。 ほかにも、動画には坂本龍馬写真のガラス湿版、龍馬書簡、姉・乙女宛「ねぶとの手紙」、下関海戦図、薩長同盟裏書き、年表などが公開され、注目を集めました。 これらの展示品の数々は動画の0:14よりご覧になることができます。 動画には坂本龍馬の暗殺の様子も再現されている! 動画の2:47からの「サラバ、龍馬」では、坂本龍馬の暗殺の経緯を知ることができます。 坂本龍馬が免許皆伝した北辰一刀流を現代に受け継ぐ「北辰一刀流・玄武館」が監修した、京都・近江屋における暗殺シーンは迫力満点。 坂本龍馬が中岡慎太郎や山田藤吉とともに京都見廻組に襲われる様子を、影絵映像や音で体感できます。 坂本龍馬の紹介動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 今回は、幕末志士・坂本龍馬について詳しくご紹介いたしました。 動画にあるような坂本龍馬の貴重な遺品は、現在は高知県坂本龍馬記念館でご覧になることができますよ。 日本の歴史の中でも、幕末時代は特にドラマティック。 現在も多くのファンを魅了する坂本龍馬について、ぜひもう一度動画をご覧になり詳しくチェックしてみてくださいね。 【公式ホームページ】高知県立坂本龍馬記念館 https://ryoma-kinenkan.jp/ 【トリップアドバイザー】高知県立坂本龍馬記念館 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298234-d1818581-Reviews-The_Sakamoto_Ryoma_Memorial_Museum-Kochi_Kochi_Prefecture_Shikoku.html -
動画記事 1:16
日本の宇宙開発は1955年に開発されたわずか20cmの小型のペンシルロケットから始まった!爆発的なスピードで進歩した日本の宇宙開発技術は世界を引っ張る!
生活・ビジネス 歴史- 43 回再生
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60年以上に及ぶJAXAの宇宙開発の歴史 こちらで紹介されている動画は「JAXA | 宇宙航空研究開発機構」が公開した「JAXA-日本の宇宙開発史ハイライト- | The History of Japanese Space Exploration」です。 多くの方がそれぞれの思いを馳せる星空…、人は太古から空を見上げ生活の知恵として生かしてきました。 日本でも古くから陰陽道は星の動きを読み、吉凶を占って政治の中枢で活躍していた時代があったのです。 まさに星と人とは切っても切れない縁があるのです。 欧米に比べ日本の宇宙開発は遅れていると勘違いされがちですが、実は日本はすでに60年以上の年月を宇宙開発に捧げ、今では世界でもトップレベルの実績を持っている国なのです。 日本の宇宙開発の中心を担うのがJAXAです。 今回はJAXAが紡いできた宇宙開発の歴史について動画で紹介いたします。 動画で紹介されているJAXAの宇宙開発の歴史とは 写真:月面着陸 JAXAは2003年に宇宙科学研究所(ISAS)、航空宇宙技術研究所(NAL)、宇宙開発事業団(NASDA)の3つの機関が統合して種子島宇宙センターに誕生した日本の宇宙開発の中核組織です。 前身である3つの組織はいずれも民間の宇宙開発機関だったのですが、JAXAとして生まれ変わった後は日本政府の宇宙開発研究を支える中核的機関になりました。 最新の日本製宇宙探査機は世界でもトップクラスの技術を有しています。 ここで輝かしい成果を歴史に残したJAXAの功績のいくつかをご紹介します。 ・2007年 月周回衛星かぐやによる世界初のハイビジョン月面撮影成功(動画:0:47〜) ・2009年ISS日本実験棟きぼうの完成(動画:0:53〜) ・2010年惑星探索機「はやぶさ」が地球帰還。小惑星の地表サンプル回収成功(動画:0:58〜) ・2019年観測用ロケット「はやぶさ2」が小惑星リュウグウへのタッチダウン成功(動画:1:00〜) JAXAが誕生してから今日までの17年という短期間で数多くの偉業を成し遂げてきたのです。 JAXA誕生以前の日本の宇宙開発の歴史の幕開け 画像引用 :YouTube screenshot 日本の宇宙開発は動画の冒頭でも紹介されているように、1955年ペンシルロケットと呼ばれる超小型ロケットの開発で幕を開けます。 戦後わずか10年で、すでに国内の復興と宇宙開発に着手していたのです。 そして、1970年には日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功。 1985年には「すいせい」でハレー彗星の観測、1992年毛利衛氏がスペースシャトルで日本人初の有人宇宙飛行に成功、1994年国産大型ロケットH-Ⅱの打ち上げ成功など、JAXAが誕生する以前からいくつもの偉大な歴史を残しているのです。 JAXAと日本の宇宙開発の歴史の紹介まとめ 写真:ロケット 実は日本の宇宙開発は1955年のペンシル発射実験の時点から世界では大きな注目を集めていたと言われています。 ペンシルロケットは非常に小型なためベビー型という愛称があり、S型、T型、R型という3つのタイプが開発されました。 この時のペンシルロケットはすでに音速に近い速度を出しており、軌道データなどがその後のカッパ型ロケットに活かされました。 当時、日本では達成不可能と言われていた高度100kmを超える観測ロケット開発を国産技術だけでやってのけたのです。 米ソという宇宙開発大国の影で目立たない存在でしたが、日本の技術力の確かさは他の国のロケット開発にも導入されてきた歴史があるのです。 特に「はやぶさ」に搭載されていた最新のエンジン技術や、遠隔操作技術はこれからの宇宙開発の歴史にとって、大きな財産になることでしょう。 【公式ホームページ】JAXA|宇宙航空研究開発機構 https://www.jaxa.jp/ -
動画記事 8:38
長野県諏訪郡「井戸尻考古館」制作の再現VTRで縄文時代の生活が丸わかり!遺跡から出土した石器、土器など。遺物から縄文人の生活を解き明かす!
歴史 生活・ビジネス 観光・旅行- 987 回再生
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長野県諏訪郡「井戸尻考古館」制作「縄文人の生活再現動画紹介 美しい神社、趣のある風景、おいしいグルメなど、日本らしい特徴のあるものを目当てに、さまざまな観光客が日本に訪れています。 日本人からしても、京都や奈良の歴史ある建物や、寿司やそばといった美味しい食べ物はとても魅力ですよね。 ただ、今回はそういった王道の日本の楽しみ方ではなく、日本の時代区分のひとつである縄文時代に生きた縄文人の生活を学べる少しマニアックな穴場スポットをおすすめします。 この記事では、縄文人の生活を学べる井戸尻考古館や、縄文時代の生活を動画に沿って紹介します。 「日本の歴史」縄文人とは?当時の生活の特徴とは? 画像引用 :YouTube screenshot 縄文人は、日本列島の時代区分のひとつ、今から約1万6,000年前から約3,000年前の縄文時代に、北海道から沖縄の日本全土で生活をしていた人々です。 世界史では、中石器時代、及び新石器時代に相当する時代です。 縄文人は、生き延びるためにさまざまな工夫をして生活していた人々。 弥生時代、そして現代へと受け継がれてきた道具や物を発明し、暮らしを楽にしていたのです。 例えば、弓を作ったのも縄文時代で、遠くから狩りができるようになりました。 また、石器や土器を発明し、食べ物を調理したり、保管ができるようになりました。 竪穴住居をつくり、一ヶ所に定住しはじめ、村ができたのもこの時期。 このように、さまざまな知恵で生活をよりよくするために工夫していたのが、縄文人です。 縄文人の生活や文化を学べる井戸尻考古館とは 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:27よりご覧になれる長野県にある井戸尻考古館は、縄文人の生活や文化を学べる施設です。 土器を初め、縄文時代の生活を物語る資料がたくさん展示されています。 土器や石器は縄文時代の年代別ごとに展示されており、それぞれの用途なども書かれています。 さらに、縄文人が住んでいた住居や、食生活、服装などを再現したコーナーも見学できるので当時の暮らしを想像して楽しめます。 また、土器や石器の文様から解読した当時の宗教や神話などを学べる場所もあり、歴史好きには必見。 動画の0:38からご覧になれる井戸尻文化の遺跡で数多く見つかっている石鍬(いしくわ)。 およそ4,500年前に、この石の鍬で畑を耕す農耕民族となりました。 春には粟やきび、夏にはそばを蒔いていたようです。 こちらは動画の1:02からの当時の再現映像でご覧になることができます。 ここ井戸尻考古館では、夏の畑の雑草を取り除く除草具も多数展示されています。 画像引用 :YouTube screenshot 動画の2:10からご覧になれる秋の雑穀の収穫には、石包丁を使用していました。 脱穀した穀物は石臼で殻を取り除き、土器で粥に調理され、家族揃って竪穴式住居で食事をします。 縄文人は粥だけではなく、川魚や山菜、クルミ、団子なども口にしていました。 こちらも動画内の再現VTRでご覧になれます。 これらの調理道具などに使用されていた縄文土器の作り方は動画の4:59よりご覧になれます。 まずは、粘土をこねて砂を混ぜて生地を作り、生地を帯のようにして、隙間が出来ないように積み上げ模様を付けます。 半月から一か月から十分に乾燥させてから、たき火で焼きあげます。 では石器はどのように作られたのでしょうか? こちらは動画の6:23よりご覧になれます。 楕円形の扁平な石を大きな石に打ちつけて薄いかけらを割りとり、石の鍬で成型しています。 当時の鍬などの石器は、現代の鍬と変わらぬ形をしています。 他にも、井戸尻文化の遺跡は女性の首飾りなども、出土されています。 動画では弓で動物を射る様子もご覧になれます。 井戸尻考古館は、日本のルーツや縄文人の生活を学べる興味深いスポットです。 縄文人の当時の生活を再現した動画紹介まとめ 画像引用 :YouTube screenshot こちらの記事で紹介した「IDOJIRIKOUKOKAN」が制作した、縄文人の生活を再現した動画は日本の歴史を知りたい方にはおすすめの一本です。 鍬や斧といった道具の使い方や、穀物の扱い方などの再現VTRは、当時の日本の生活がわかりやすく紹介されています。 日本の縄文時代の有名な遺跡は、三内丸山遺跡(青森県)、亀ヶ岡遺跡(青森県)、大森貝塚遺跡(東京都)、加曾利貝塚(千葉県)、菜畑遺跡(佐賀県)などがあります。 こちらの動画をご覧になって、縄文時代に興味を持たれた方はこれらの遺跡にも足を運んでみてはいかがですか。 【公式ホームページ】井戸尻考古館ホームページ http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html -
動画記事 1:45
鉄砲伝来の地、鹿児島県種子島はどんな観光名所?種子島銃に関するスポットを巡る歴史観光を楽しんでみよう!
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鹿児島県種子島の「鉄砲期」に関する動画をご紹介! こちらの動画は、読売新聞オンラインが制作した【史書を訪ねて「鉄砲記」 鹿児島・種子島】です。 こちらの動画で紹介されている鹿児島県種子島は、日本に初めて鉄砲が伝来した地として知られます。 動画冒頭には美しい種子島門倉岬のドローン空撮映像が収録されています。 豊かな自然風景と鉄砲伝来の歴史をご堪能ください。 鹿児島の種子島に鉄砲が伝来したのはいつ? 写真:火縄銃を持った鎧武者 鹿児島県種子島は鉄砲伝来地として知られるスポット。 1543年(天文12年)に種子島に漂着したポルトガル人によって、鉄砲とともに製造技術や射撃法などが伝えられました。 動画の0:27からは、鹿児島県種子島にある鉄砲伝来の記念碑や鉄砲像が紹介されています。 種子島に伝わった鉄砲はマッチロック式と呼ばれる大筒の銃器で、種子島銃とも呼ばれます。 鉄砲伝来と同時期の1549年(天文18年)には、ヨーロッパ人宣教師によって日本にキリスト教も伝えられました。 鹿児島県種子島の鉄砲に関するスポットとは? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:41で紹介されている種子島総合開発センター鉄砲館の近隣には、初めて鉄砲を発砲したという種子島時尭の銅像もありますよ。 種子島時尭は火縄銃の国産化を果たしたことでも知られます。 動画の1:17から映されている八板金兵衛清定は、鉄砲を複製し、また鉄砲の発砲に必要なネジを開発したと伝わる人物です。 これによって鉄砲の量産が可能となり、戦国時代には多くの武将が安価な値段で鉄砲を手に入れられるようになりました。 鹿児島県の種子島を訪れてみよう! 写真:鹿児島県・種子島の洞窟 種子島には動画に紹介されている鉄砲伝来に関するスポットのほかにも、種子島宇宙センター宇宙科学技術館や赤尾木城文化伝承館月窓亭をはじめとした多くの観光スポットがあります。 喜志鹿崎や浦田海水浴場、馬立の岩屋や千座の岩屋、アコウの木のアーチといった自然豊かなスポットもぜひ訪れてみましょう。 種子島では毎年鉄砲祭りが開催され、多くの観光客で賑わいますよ。 鹿児島県種子島の鉄砲伝来に関する動画まとめ 写真:鹿児島県・種子島 鹿児島県の種子島は、動画を見ても分かるようにとても自然豊かで魅力的なスポットです。 ぜひ種子島で鉄砲伝来に関する観光スポットをめぐって、その深い歴史を感じてみましょう。 鉄砲やキリスト教伝来についてさらに詳しく知りたい方は、長崎県五島列島に訪れるのもおすすめです。 【公式ホームページ】学びを遊ぶ、南の島「種子島」 | 種子島観光協会 http://tanekan.jp/ -
動画記事 6:42
幕末・江戸時代の伝説のサムライたちの姿が収めた貴重な映像!多くの外国人の心を引き付ける侍文化を堪能する!
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こちらの動画は「マジ話チャンネル」が公開した「【驚愕】発見された「日本最後の侍」の写真が凄すぎる!嘘のような本当の写真 江戸時代 幕末 伝説のサムライたちがヤバイ」です。 日本に写真の技術が持ち込まれたのは江戸時代末期のことです。 なんと日本には、明治維新の時期から明治期にかけて撮影された侍の写真が残されているのです。 動画で紹介されている写真を撮影したのは、フェリーチェ・ベアトや日下部金兵衛といった写真技術者たち。 彼らは、現在の日本には存在していないかつての侍の姿を、写真として残していました。 動画の3:33には人気志士の坂本龍馬を撮影した写真も紹介されています。 ぜひ動画を見て、日本の侍ならではのかっこいい衣装を堪能しましょう。 -
動画記事 15:03
日本の歴代の天皇全125代をご紹介します。2019年に「令和」の時代が始まり、日本は新たな時代の幕開けとなった。
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こちらの動画は「Yasaka Hastur」さんが公開した「歴代天皇125代.」です。 「歴代天皇125代.」の動画は、日本の歴代天皇を約15分で紹介する動画です。 初代神武天皇から、現在は上皇陛下となられた125代天皇(動画は2012年制作なので今上天皇として紹介)までを、肖像と実名、即位期間とともに紹介します。 令和になった現在は、126代今上天皇が即位されています。 動画を視聴すると、歴代天皇の長い歴史を静かに感じることができるでしょう。 14:00からは上皇陛下と皇族の方たちの写真も紹介されます。 -
動画記事 3:56
戦後75年の今でも戦争の傷跡が多く残る東京都の「硫黄島」。太平洋戦争の激戦地は当時の悲惨な状況を現在に伝える。
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硫黄島の戦跡を紹介する動画について こちらの動画は「時事通信トレンドニュース」が制作した「硫黄島の戦跡を巡る=灼熱の地下壕、集団埋葬地」です。 第二次世界大戦は日本に数多くの傷跡を残しました。 しかし、戦後多くの史実が捻じ曲げられて伝えられることもあり、未だ太平洋戦争のそして旧日本軍の本当の姿を知らない方も多くいます。 硫黄島に残された痛ましい戦跡もその一つ…。 昭和の頃は日本唯一の本土決戦の地は沖縄だと教えられてきました。 しかし、沖縄よりも前に激しい陸戦が行われたのが太平洋に位置する小笠原諸島の周囲12kmしかない小さな硫黄島でした。 この硫黄島には戦前は多くの民間人が住んでいましたが、戦争によって硫黄島は稀に見る激戦地となり、本土引き上げが間に合わなかった民間人と栗林忠道中将を中心とする守備隊の多くは戦死したのです。 渡辺謙、嵐の二宮和也が出演した映画「硫黄島からの手紙」は硫黄島の激戦を伝える数少ない映画の一つです。 こちらの記事では現在の硫黄島を紹介している動画に沿って、硫黄島の歴史を紹介します。 硫黄島とは?硫黄島上陸計画は日本本土攻略の要石だった? 写真:硫黄島 硫黄島とは東京都小笠原村の一つ。 東京23区内からはおよそ1,200kmに位置する小さな火山列島で今も噴火を繰り返しています。 動画の冒頭0:06からは硫黄島の北部にある米軍が制作した壁画をご覧になれます。 硫黄島に上陸した海兵隊員が擂鉢山に星条旗立てる有名な場面がモチーフとされていますが、この人達だけがヒーロー扱いされていたことに憤慨しこの壁画に米軍が銃弾を撃ち込んだそうです。 動画では戦跡として、動画の1:45からは被弾して抉れた(えぐれた)砲身を晒すアームストロング砲や不発弾、動画の3:33からは米軍が廃棄したシャーマン戦車の残骸など生々しい戦跡が映し出されています。 画像引用 :YouTube screenshot アメリカ軍による硫黄島上陸計画はデタッチメント作戦と呼ばれました。 開戦当初から日本軍と連合国軍の兵力は歴然とした差がありました。 これに対し、旧日本軍は動画の1:16からご覧になれるような地下壕に潜伏し、ゲリラ戦法で戦力差を補いつつ戦いました。 しかし、活火山である硫黄島の地熱は高く、地下壕は灼熱地獄の様相を呈していたと言われています。 動画でも0:40頃から病院として使われていた戦跡の一つ、海軍医務科壕の奥に入ると地下熱でカメラのレンズが一瞬で曇ることからも、いかに過酷な状態であったのかが伺えます。 また海底火山から出る有毒ガスが突撃壕に充満し、危険な状態での防衛戦術だったと伝えられています。 旧日本軍はアメリカ軍と硫黄島の自然環境の二重の苦難にさらされながら、3日でケリがつくといわれていた硫黄島の戦いを約1ヶ月も粘り抜いたのです。 これだけの時間を硫黄島に費やしたことは、アメリカ軍にとって硫黄島が日本本土攻略においての重要拠点であったかということを物語っています。 今に残る硫黄島の戦跡を巡る見学会 写真:硫黄島 現在は観光で一般人が硫黄島を訪れることはできませんが、年に1度だけ硫黄島3島の戦跡を巡る見学会が催行されています。 公開されているのは集団埋葬地、戦後米国のプロパガンダに使われ生き残りの米兵が銃弾を打ち込んだと言われている壁画、大阪山砲台、遺骨収容場などの戦跡です。 それ以外の時期は海上自衛隊が駐屯し、訓練と遺骨収集を行っているので立ち入り禁止区域になっています。 硫黄島の戦跡を紹介する動画のまとめ 画像引用 :YouTube screenshot 戦後日本はアメリカ軍の統治下におかれ、自治を回復するまで硫黄島は日本人が足を踏み入れることのできない戦跡になりました。 生き残った島民は故郷を追われ、全国に散り散りになり今も硫黄島には年に1回しか帰省することができません。 動画の2:14からご覧になれるようにアメリカが公開した公式文書には2,000名の遺骨が遺骨収容場所に埋葬したと記載されていますが、未だ60%以上の戦没者が硫黄島に眠っているのです。 戦争という悲劇を繰り返さないために、現在も残る傷跡から日本の歴史を学んでください。 【トリップアドバイザー】硫黄島 https://www.tripadvisor.jp/Tourism-g1137885-Iwo_Jima_Tokyo_Prefecture_Kanto-Vacations.html -
動画記事 13:17
親日国トルコとの友情は和歌山県から生まれた!エルトゥールル号海難事故から130年経った現在でも深い交流は続く!
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エルトゥールル号遭難事故とは 今回ご紹介する動画は「WakayamaPref」が公開した、日本から8,700km離れた親日国トルコとの絆を結んだエルトゥールル号を紹介した「日本トルコ 時を越える絆 ~エルトゥールル号が繋ぐ友好の物語~」です。 東ヨーロッパと西アジアにまたがるトルコは親日国として有名ですが、その歴史は今から130年前の日本の本州最南端である和歌山県串本町にある大島で起きた、エルトゥールル号の遭難事故から始まりました。 トルコ軍艦が1890年9月にトルコへの帰国の途中で台風により船甲羅という岩礁に衝突し、樫野崎沖に沈没しました。 地元住民がこのとき海難事故にあったトルコ人船員を救出作業したことからトルコとの友好が始まったのです。 エルトゥールル号を救った串本町 画像引用 :YouTube screenshot トルコのエルトゥールル号救出活動にあたった人たちの住む集落は和歌山県串本町の樫野地区の方々です。 当時、通報を受けた住民らは、救助と介抱をおこないました。 こちらは動画の1:26より詳しく紹介されていています。 決して豊かではなかった時代に、台風で漁に出られず蓄えも少ない中、衣類や食料をトルコ人たちに提供しました。 当時おにぎりを提供したとされる入れ物の「もろぶた」も残されています。 こちらは動画の2:43からご覧なれるエルトゥールル号の救出にあたった住民の息子さんへのインタビュー内で紹介されています。 イランイラク戦争と親日の歴史 1985年に起きたイラク戦争のさなかにイラン・テヘラン在留邦人救出がおこなわれました。 イランの首都テヘランに取り残された日本人215人をトルコ政府が派遣したトルコ航空機によって救難活動されたというものです。 この事件も親日のトルコとの絆によって起きたエルトゥールル号救出恩返しと言えます。 今も続くエルトゥールル号遭難事故への慰霊祭 写真:トルコ記念館 動画の5:33からご覧になれるように、エルトゥールル号遭難事故の翌年から住民らによる慰霊祭が行われ、以来途切れることなく交流が受け継がれ、現在も5年ごとにトルコとの合同慰霊祭を行っています。 式典に向けて和歌山県串本町では街を上げて準備をしました。 また、6:49からご覧になれるように2015年にトルコ記念館がリニューアルオープンし、新たに遺品発掘調査で発見された遺品展開催がされました。 当時のエルトゥールル号は木造であったため、船内にあった遺品はすべて海に沈みました。 これらの遺品調査が2008年から続けられています。 多くの調査を繰り返し、これまでトルコと日本あわせて7箇所で遺品の展覧会を行っています。 動画の9:04からご覧になれる2015年の発掘調査では当時船が遭難した樫野崎沖で作業をおこない、51回の潜水で311点もの遺品を見つけることができました。 エルトゥールルリサーチセンターでこれらの遺品が調査され、地元の子どもたちも保存作業を協力しています。 画像引用 :YouTube screenshot 島唯一の大島小学校では総合の時間で親日国トルコと日本の交流について学びます。 トルコのあいさつをする様子が動画の7:34からご覧になるができます。 また、親日家であるトルコ人が串本町の役場で働く様子は7:50よりご覧になれます。 8:16から紹介されているのは親日友好の証として串本町が開発したのが「エルトゥールル」という名前のバラです。 トルコの親日の歴史を知れるエルトゥールル号紹介まとめ 写真:トルコ軍艦遭難慰霊碑 動画でご覧になれるように和歌山県串本町トルコ文化協会では、民族舞踊や言葉の勉強、親日であるトルコ人との交流などの活動をおこなっています。 日本とトルコの友好125周年を記念して映画「海難1890」も公開されました。 小説や本も多数出版されています。 四季折々の風景や世界遺産である高野山と熊野がある和歌山で新日交流を築いたエルトゥールル号の奇跡と日土国交の歴史を学んでみてください! -
動画記事 2:13
戦禍を経験した「武智丸」は海の守り神として親しまれている武智丸堤防として生まれ変わった!広島県呉市の海の守り神として住民を見守る武智丸の歴史を探る。
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第二次世界大戦(太平洋戦争)時にコンクリート船として竣工した武智丸を紹介! こちらは日本の景色やおだやかな風景をドローンで撮影している「K西山」さんが制作した広島県呉市安浦町にあるコンクリート船「武智丸(たけちまる)」をPRした動画「広島県呉市安浦町、海の守り神:終戦間際のコンクリート船、武智丸」です。 武智丸とは第二次世界大戦(太平洋戦争)の最中、大日本帝国海軍所属の貨物船として竣工されたEC型戦時標準船のこと。 同時期に合計5隻の同船の建造が計画されましたが、その内の2隻が広島県呉市安浦町の漁港に残っています。 この武智丸は現在は海辺の住民の生活を守るために堤防として使用されています。 その迫力ある姿を是非こちらの動画でお楽しみください。 迫力満点!武智丸の雄大さと歴史を感じる! 写真:コンクリート船・武智丸 武智丸の大きさは全長64.5m、重量は800トンであり、載貨重量980トンの巨大な貨物船です。 その姿は動画の0:10よりご覧になることができます。 現在は広島県呉市安浦町の三津口沖の堤防の役割を担っている武智丸。 かつて、大阪の「武智正次郎」という土木会社の経営者が造船することを強く希望したとされています。 様々な建造計画が練られた後、兵庫県の高砂市に2基のドックを建設。 2基のドックは、武智正次郎の名をとって、「武智造船所」と名付けられました。 そして、1944年に「第一武智丸」が竣工。 構造上、他の鋼材船よりも重量が重く、載貨重量が少ないのが欠点とされていました。 しかし、鋼材船に負けない強度と頑丈さを発揮し、貨物船として軍需物資等の運搬を行っていました。 その後に竣工された「第二武智丸」は軍需物資の貨物船として横須賀に配備され、第二次世界大戦の戦禍の中、輸送船としての役割を果たしたのです。 戦後、武智丸はどうなった? 写真:コンクリート船・武智丸 第二次世界大戦後、第一武智丸は呉港に、第二武智丸は大阪港へと払下げを受けました。 しかし、広島県呉市安浦町の安浦漁港には防波堤がなかったことから、第一武智丸と第二武智丸を防波堤代わりに使用することを計画。 そして動画の全編でご覧になれるように、安浦漁港の防波堤として活躍することになるのです。 当時、鉄筋などの金属の値段が高騰したこともあり、第一武智丸、第二武智丸に使用されていた鉄製部品はほとんど持ちされてしまったのです。 そのため、今では船体のコンクリートのみが残った形となり、今の顔である「コンクリート船」となったのです。 観光名所としての武智丸!当時の面影を体感! 写真:釣りをする人 このような歴史を経て、武智丸は広島県呉市安浦町の安浦漁港に現存。 武智丸の迫力と偉大さを一目見ようと、たくさんの観光客が訪れています。 武智丸がご覧になれるのは広島県呉市の三津口桟橋からすぐ。 交通アクセスも良く、観光に訪れやすいのが特徴です。 近隣には広島の日本酒を作る酒造・醸造があり、地酒を楽しむことも可能。 さらに、海津神社や子崎神社などで観光を楽しむことができます。 また、武智丸と三津口桟橋の間はアジやイワシが釣れる有数の釣りポイントとしても知られています。 同じ広島県呉市の音戸町にはコンクリート製被曳航油槽船という別のコンクリート船がありますが、こちらは劣化が激しく、見学の際は注意が必要となっています。 武智丸がある広島県呉市安浦町は歴史を肌で感じることができます。 呉港、舞鶴港、そして硫黄島などへ足を運んで日本の歴史を学んでみてはいかがですか。 堤防として生まれ変わった武智丸紹介まとめ 広島県呉市安浦町では海の守り神として親しまれている武智丸。 第二次世界大戦の戦禍を経験し、今は防波堤と港の住民の生活を守るために活躍しています。 その迫力と偉大さは、当時の技術力と職人の技を感じることができるでしょう。 ぜひ、約2分の動画で武智丸の歴史を感じてみませんか。 【トリップアドバイザー】武智丸 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1022430-d10839037-Reviews-Concrete_Ship_Takechimaru-Kure_Hiroshima_Prefecture_Chugoku.html -
動画記事 2:29
奈良ホテルに隣接する美しい庭園を散策してみませんか?平安時代から公家や将軍に愛された名勝旧大乗院庭園の見どころをご紹介!
動物・生物- 47 回再生
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古都・奈良にある美しい庭園、旧大乗院庭園をご紹介! こちらは、日本文化に関する映像を配信されている「Urara Sarara」様が公開した、奈良県奈良市の旧大乗院庭園(きゅうだいじょういんていえん)の紹介した動画「[4K] 日本庭園 旧大乗院庭園 / 奈良 Japanese Garden DAIJO-IN NARA」です。 旧大乗院庭園は、奈良ホテルに隣接した、国の名勝に指定された美しい日本庭園です。 南都随一の名園として称えられた旧大乗院庭園の美しさを、約2分半の4K動画でお楽しみください。 旧大乗院庭園とは?旧大乗院庭園の歴史を知ろう! 写真:奈良県奈良市・旧大乗院庭園 旧大乗院庭園にあった大乗院は、1087年(寛治元年)に創建された歴史を持つ寺院で、平安時代から江戸時代にかけて栄えました。 興福寺の門跡寺院として有名でしたが、治承4年(1180年)の平氏による南都焼き討ちにより焼失し、現在の場所へと移りました。 旧大乗院庭園は、室町時代の徳政一揆によって荒廃していましたが、銀閣寺の庭園を作庭したことで有名な「善阿弥(ぜんあみ)」の手で改造されました。 明治初年の廃仏毀釈により、廃寺となりましたが現在は、その跡地内に奈良ホテルが建てられ、今は「旧大乗院庭園」として観光スポットとなっています。 旧大乗院庭園の見どころをご紹介! 写真:奈良県奈良市・旧大乗院庭園の秋 旧大乗院庭園は、東大池と西小池を中心とした池泉回遊式庭園となっています。 この池泉回遊式庭園は旧大乗院庭園の他には、京都の桂離宮や金沢市の兼六園があります。 旧大乗院庭園は、春の深緑、秋の紅葉など一年を通していつ観光に来ても素晴らしい景色を見ることが出来ますが、季節のイベントの時期に訪れると、更に美しい姿を見ることが出来ます。 旧大乗院庭園では9月には「観月の夕べ」として、夜間特別公開を行なっています。 中秋の名月と、旧大乗院庭園の美しさのコラボレーションが楽しめます。 そして、旧大乗院庭園内には、かつての大乗院を再現した模型を展示した歴史資料館と、各種イベントに利用できる会議室や茶室を備えた、大乗院庭園文化館が建てられています。 更に、屋外の築地(ついじ)の塀には、楽人長屋土塀のデザインが取り入れられており、庭園だけでなく建物の外観からも文化を楽しめるようになっています。 奈良県の観光名所・旧大乗院庭園への交通アクセス 旧大乗院庭園への交通アクセスはJR奈良駅・近鉄奈良駅から 天理・下山行バス約8分で「奈良ホテル」下車、徒歩1分、もしくは「福智院町」下車、徒歩1分となっています。 お車でお越しの際は近隣の「ならまちセンター」駐車場をご利用下さい。 南都・奈良の名勝旧大乗院庭園のまとめ 写真:奈良ホテル 旧大乗院庭園は、秋は紅葉や中秋の名月を眺めながら、春は桜を眺めながら庭園散策を楽しめます。 古都・奈良にある旧大乗院庭園は、100年以上の歴史のある奈良ホテルに隣接していることもありますので、奈良観光の宿泊地として泊まり、散策を楽しむという旅も良いのではないでしょうか。 旧大乗院庭園の美しい姿を是非、その目で確かめてみてください。 【公式ホームページ】名勝旧大乗院庭園 https://www.narahotel.co.jp/daijyo_in_toha.html 【トリップアドバイザー】名勝大乗院庭園 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298198-d2049192-Reviews-Meisho_Daijoin_Garden-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html -
動画記事 6:33
東北最大の城郭、山形市「山形城」は圧倒的な存在感と美しさ。600年以上守られてきた歴史ある国指定史跡へ探索の旅へ!
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奥羽の名城、山形市「山形城」動画紹介 こちらは「channel WASABI|和作美」さんが公開した名城山形城を紹介する動画「【山形/日本100名城】山形城 - Yamagata Castle in YAMAGATA, JAPAN/The Top 100 Castles in Japan/No.10 -」です。 動画でご覧になれる国指定史跡の名城山形城は山形県山形市霞城町にあり東北最大の城郭を誇ります。 天守閣が無かった事でも知られる名城山形城は、1356年(延文元年)に羽州探題として山形に入った最上家の初代となる斯波兼頼(シバ カネヨリ)が築城したのが始まりです。 斯波兼頼とは、南北朝時代の武将で最上兼頼とも呼ばれました。 現在の城郭は第11代城主である最上氏が築いたものが原型で、1622年(元和八年)に最上氏の後に城主となった鳥居忠政によって、現在残っている二の丸の堀や土塁、石垣が整備されました。 鳥居忠正は、徳川家の家臣であり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将であり大名です。 こちらの動画では、国の史跡山形城の魅力を素敵な音楽と共にご覧になれます。 是非皆さまお楽しみください。 名城山形城の別名は? 日本100名城にも選ばれている山形城。 山形城は別名「霞城」「霞ヶ城」とも呼ばれています。 この名前の由来は北の関ケ原とも言われる「慶長出羽合戦」の際に、城郭が霞で隠れて見えなかったことから、こう呼ばれるようになったと地元では語り継がれています。 山形城と最上家の歴史 写真:山形城の最上義光騎馬像 江戸時代に活躍した11代目城主「最上義光」は、五十七万石の領地を認められ、山形城と城下の整備に力を入れます。 最上義光とは山形城を築城した最上家の初代「斯波兼頼」の子孫で、初代山形藩主です。 馬にまたがる勇敢な姿の最上義光騎馬像はこちらの動画で2:52からご覧になれます。 最上義光の時代に城郭は拡大され、三の丸には上級と中級の家臣の屋敷が、城外には下級家臣の屋敷や寺院が配置されました。 東北最大の城郭を持つ山形城と城下町の原型の誕生です。 最上義光の死後、山形藩は鳥居忠正による統治となり大規模改修が始まります。 度重なる城主の交代により、江戸時代に山形藩の政庁が置かれ「最上家、五十七万石」を誇った石高も幕末には五万石までに減少し、維持することが難しくなっていった山形城は荒廃していきます。 国の史跡として変化し続ける山形城 写真:山形城の二の丸東大手 山形城跡の本丸と二の丸は都市公園として整備され、三の丸の一部と共に1986年(昭和61年)国の史跡「霞城公園」に指定されています。 霞城公園内には動画の3:27よりご覧になれる旧済生館病院本館が重要文化財として保存されており、山形県立博物館や山形美術館、最上義光歴史館もあります。 江戸城の門にも匹敵するといわれる「二の丸東大手門」「高麗門」、「楼門」「北櫓」「続櫓」「大手橋」、動画の4:17よりご覧になれる「「本丸一文字門」」などが次々に修復され、現在でも修復作業は進められています。 城郭が荒廃する哀れな姿を晒していた、かつての山形城の姿はもうありません。 今では日本を象徴する「ソメイヨシノ」が咲き誇る桜の観光名所ともなり、春の開花時期に合わせて開催される「霞城観桜会」では約1,500本もの桜がライトアップされます。 日本の歴史公園100選、また2006年(平成18年)には日本100名城にも選ばれ、御城印スタンプも設置されています。 名城山形城紹介まとめ 写真:山形県山形市山形城跡・霞城公園の桜 最上氏や鳥居氏、山形市によって長い年月をかけて整備され続けている歴史ある山形城は、多くの人の想いを見つめ続け愛されてきた名城です。 美しい石垣など堀の周りには豊かな自然が溢れています。 季節によって表情を変える自然の姿が鏡のように池に映り込み、訪れる人々を魅了します。 この動画では、日本の美しい四季を肌で感じられる山形城を身近に体感できるのです。 是非皆様日本の歴史をこちらの動画で感じてください。 ◆山形城の基本情報◆ 【住所】〒990-0826 山形市霞城町1番7号 【交通アクセス】 電車でのアクセス:JR山形駅より徒歩10分程度 車でのアクセス:山形自動車道山形蔵王ICより、約15分 【駐車場】無料(駐車台数230台うち身体障がい者等用駐車スペース5台、バス用駐車スペース5台) 【開園時間】5:00から22:00(4月1日~10月31日)、5:30分から22:00(11月1日~3月31日) 【入園料】無料 【休園日】年中無休 【公式ホームページ】国指定史跡 山形城 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kakuka/machizukuri/koen/sogo/yamagatajo/ 【トリップアドバイザー】山形城跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1023191-d1745658-Reviews-Yamagata_castle-Yamagata_Yamagata_Prefecture_Tohoku.html -
動画記事 3:56
日本に古くから伝わる仏教の修行「四国遍路」を体験できる!四国霊場八十八ヶ所の巡礼は日本の歴史や自然に触れることのできる日本遺産だった!
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四国遍路紹介動画について こちらは、日本の四国遍路についてご紹介する動画「[美しき日本] 四国 四国遍路」です。 四国遍路というのは、徳島・香川・愛媛・高知の四国エリア四県に点在する四国八十八ヶ所霊場を巡る巡拝ツアーのこと。 この日本に古くから伝わる巡礼巡拝の魅力を探ってみましょう。 動画では「四国遍路」の美しい風景を紹介しています。 四国遍路の新緑と青い空をご覧いただき、四国遍路の雰囲気を味わってください。 四国遍路とは? 写真:弘法大師修行像 「お遍路さん」とも呼ばれる四国遍路は、かつて弘法大師空海が修行のために歩いたとされる寺院や霊跡を巡ること。 室町時代頃までは修行僧が巡拝していましたが、江戸時代以降になると庶民も物見遊山や健康祈願のために四国遍路をするようになりました。 四国遍路の道筋に暮らす人々が、お遍路さんをおもてなしするお接待と言う文化も約300年前より受け継がれています。 日本で古くから行なわれてきた四国遍路は、2015年には日本遺産にも選定されました。 四国遍路は、一歩一歩ひたむきに大自然に向き合いながら自らの力で歩きます。 四国遍路巡礼巡拝の方法 写真:四国巡礼者 四国遍路はどの寺院から始めても良いのですが、1番札所から回る「順打ち」をするのが一般的です。 各札所寺院では御本尊様とお大師様にお経を奉納し、そのしるしとして納経帳(御朱印帳)にお納経(御朱印)を授かります。 四国遍路には「同行二人(どうぎょうににん)」という考え方があります。 これは1人でお遍路をしていても常に弘法大師がそばにいて守られているという考え方です。 四国霊場八十八ヶ所巡礼を終えて結願を果たしたら、日本仏教の聖地である高野山奥之院へお礼参りに行く習わしがあります。 四国遍路を満喫するポイント 画像引用 :YouTube screenshot 四国遍路を歩きで巡った場合には、約50日程度の日数がかかります。 各スポットの名所を巡ったり、日本ならではのグルメを楽しんだり、風情ある日本風の宿に泊まったりしながら、自身のペースで巡礼巡拝を進めていきましょう。 動画内では随所でお遍路を行う方の姿や、大自然の四国遍路の風景が映し出されています。 あなたのお気に入りの風景もきっと見つかるはずです。 四国遍路はどんな服装で行なっても良いのですが、修行の身であることを示すために白装束と輪袈裟を身につける方が多いもの。気候が悪いときのために遍路傘をかぶり、金剛杖を手に持てば身も引き締まりますよ。 四国遍路紹介動画まとめ 寺院を巡りながら自然の中を歩く四国遍路は、かけがえのない体験となるはずです。 日本で古くから実践されてきた深い歴史をもつ四国遍路は、日本文化を体験してみたい方におすすめですよ。 動画でも紹介されているような美しい自然に囲まれ、そして人々の暖かさに触れれば、あなた自身の新しい発見が見つかるのではないでしょうか。 -
動画記事 6:00
鹿児島県の上甑島で7000万年前の巨大草食恐竜の化石を発見!!いったいどんな恐竜が日本にいたの!?化石の島として有名になった甑島の発掘風景、調査風景を紹介!
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鹿児島県の甑島で発見された恐竜の化石についての動画をご紹介! 今回ご紹介するのは「甑島の海辺で恐竜の化石発見! 日本財団 海と日本PROJECT in 鹿児島 2018 #09」という動画です。 国立科学博物館と鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市は、市内の甑島(こしきしま)で貴重な長さ70センチの大きな化石が発見されたことを発表しました。 動画の0:54にもあるように、鹿児島県下甑島の甑ミュージアム恐竜化石等準備室のスタッフの三宅優佳さんは、貴重な化石の発掘に驚きつつも、とても喜んでいます。 いったい何の化石が見つかったのでしょうか? 動画で紹介されている鹿児島県の甑島は深い歴史をもつ観光スポット! 画像引用 :YouTube screenshot 甑島は鹿児島県薩摩川内市の西側、東シナ海に浮かぶ列島で、海面から切り立った高さ200メートルの断崖絶壁がそびえる自然豊かなスポットです。 上甑島、中甑島、下甑島といくつもの無人島から成る甑島列島には、太古の歴史ロマンが眠っています。 動画の冒頭に映っている崖の地層はなんと白亜紀から古第三紀頃に形成され、島内最古の地層はなんと約8000万年前のものなのです。 動画で紹介されている、鹿児島県甑島の恐竜の化石とは? 画像引用 :YouTube screenshot 甑島は、恐竜の化石が相次いで発掘される地として注目を集めています。 薩摩川内市と熊本大学の合同研究チームが2016年に発見した長さ70センチの化石は、過去最大の大きさでした。 発見した化石と熊本大学大学院先端科学研究部の小松俊文准教授のインタビューは動画の1:20からご覧になれます。 他の調査メンバーの驚きの声も動画でご覧になれます。 動画で紹介されている恐竜研究の詳しい内容についてご紹介! 画像引用 :YouTube screenshot 動画の3:36からは、日本で初・アジアで3例目の2012年に発見された草食恐竜の仲間ケラトプス類の化石についても紹介されています。 また、鹿児島県甑島の姫裏層群(ひめのうらそうぐん)からは、肉食恐竜の歯や肋骨、角竜類恐竜の歯根の一部、アンモナイトや爬虫類の化石なども発見されました。 動画の3:58からは、持ち帰った恐竜の化石のクリーニング作業の様子も映されているので、ぜひチェックしてみましょう。 あまりの大きさに驚き、また、楽しみもあるとクリーニングの担当者は語ります。 発見から1年半経ちこの大きな化石のことがだんだんとわかってきました。 発見された化石は7000万年前の草食恐竜の仲間であるハドロサウルス類の大腿骨とわかりました。 ハドロサウルス類は白亜紀後期にアジアや北アメリカで繁栄した草食恐竜で大腿骨からの大きさから体長10メートル以上あったことが推定されます。 ハドロサウルス類の復元図は動画の5:07よりご覧になれます。 鹿児島県甑島で発見された恐竜の化石に関する動画まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 今回見つかった恐竜の化石は、恐竜の絶滅期に近い時期のものと推定され、恐竜絶滅の謎を解き明かす重要な資料になると期待されています。 太古の昔に存在したという恐竜についてはまだまだ謎が多いもの。 これからも多くの研究者によって、恐竜の化石に関するさらなる研究が進んでいくことでしょう。 動画で紹介されている甑ミュージアム恐竜化石等準備室では恐竜の化石の展示のほか、恐竜化石発掘体験ツアーのイベントなども開催しているので、興味がある方はぜひ観光に出かけてみてくださいね。 【公式ホームページ】こしきしま観光局 甑島の旅・甑島の観光なら、こしきしま観光局 https://satsumasendai.gr.jp/koshiki-sight-seeing/ -
動画記事 9:15
鑑真建立の奈良県の世界遺産「唐招提寺」を動画で堪能!国宝「金堂」は奈良時代から現在までそのままの姿を伝える!貴重な伽藍をご紹介
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鑑真建立の唐招提寺動画紹介 この記事は『channel WASABI|和作美』さん制作の『【奈良/世界遺産】唐招提寺/鑑真建立の古社(解説編) -Toshodai-ji Temple in NARA, JAPAN (Commentary edition) -』という動画をご紹介します。 奈良の「唐招提寺」とは 写真:奈良県奈良市・世界遺産唐招提寺の石碑 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある寺院。天平宝字三年(759)年に鑑真和上(がんじんわじょう)が建立され1300年の歴史のある古寺で、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 境内には天平文化を伝える国宝や重要文化財の建物が多くあり、唐招提寺は世界遺産に指定されています。 唐招提寺を建てた人「鑑真」について 唐招提寺を建立した鑑真は、中国が唐と呼ばれる時代の高僧。奈良時代、約11年間に5回にわたり渡航の失敗を繰り返し、苦労の末に日本にやってきました。日本に渡ってきたときにはすでに鑑真は66歳になっていました。 来日後5年は東大寺で過ごし、日本の律宗の祖として、戒律の確立を行いました。そして、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きます。それが「唐律招提」です。その後、鑑真を支持する人により金堂などの多くの建物が建てられ、唐招提寺となりました。 境内の御影堂(みえいどう)には鑑真和上坐像(国宝)があり、6月に扉が開かれて毎年特別公開が行われています。また、東山魁夷が10年もの歳月を費やし完成させた圧巻の障壁画も同時に公開されます。 唐招提寺の金堂について 写真:奈良県奈良市・唐招提寺 南大門の先にある金堂(国宝)は、奈良時代の大規模な仏殿木造建築を今に残す唐招提寺の代表的な建物。本堂の中央には3mを超える座像の「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」、右には「薬師如来立像」、左には「千手観音立像(すべて国宝)」が安置されています。 動画では、迫力のある荘厳な金堂がご覧いただけます。 【動画】1:13〜 唐招提寺の金堂 唐招提寺の金堂以外の見どころ 写真:奈良県奈良市・唐招提寺の講堂 世界遺産の唐招提寺には、多くの貴重な伽藍があり、国宝が並ぶ景観を写真に撮ればインスタ映えも狙えます。 唐招提寺を訪れると、まず南大門があり、その先に現れるのが金堂。金堂と講堂の間に位置するのが2階建ての鼓楼です。石段が鎌倉時代から残されている戒壇の横には、鑑真が持ち込まれたと言われる蓮池があり、前述の御影堂、高床式の経蔵・宝蔵などが建ちます。 弥勒如来像が安置されている講堂はこちらでご覧いただけます。 【動画】6:42〜 講堂 また唐招提寺では、年間を通して様々な行事が行われています。特に知られているのが、鼓楼から数百本のうちわがまかれる「うちわまき」。うちわを授かることは、病魔退散や魔除けのご利益があるとか。 毎年、大悲菩薩覚盛(だいひぼさつ・かくじょう)上人の命日に執り行われる中興忌梵網会の後にうちわがまかれます。当日にうちわまき参加券を配布されるとのこと。 唐招提寺まとめ 日本を代表する寺院の唐招提寺の厳かな魅力を伝える動画はご覧になりましたか?1998年に奈良の文化財として、ユネスコにより世界遺産にも登録されている「唐招提寺」。多くの国宝・重要文化財を有する見どころたっぷりの唐招提寺にぜひ訪れてみてくださいね。 ◆唐招提寺◆ 【住所】奈良県奈良市五条町13-46 【電話番号】0742-33-7900 【参拝時間】8:30~17:00(受付は16:30まで) 【拝観料(個人)】大人・大学生 1000円、高校生・中学生 400円、小学生200円(令和4年5月20日時点) 【交通アクセス】 最寄り駅:近鉄西ノ京駅 奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」 【駐車場】あり(有料) 【公式ホームページ】唐招提寺 https://www.toshodaiji.jp/ 【トリップアドバイザー】唐招提寺 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298198-d319882-Reviews-Toshodai_ji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html -
動画記事 12:02
世界最古の演劇芸術・能の楽しみ方を学ぶ。1300年の昔から変わることなく多くの人に愛されてきた伝統文化の魅力は?
伝統文化- 81 回再生
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世界最古の演劇芸術・能の紹介動画 こちらの動画は「NipponTsuTV」が公開した、能の基礎知識を紹介する動画「能を楽しむための基礎知識❖日本の伝統芸能【日本通tv】」です。 世界無形遺産にも指定されている伝統文化・能。 こちらの記事では動画に沿って伝統芸能の“能”の世界をたっぷりと紹介します。 世界最古の演劇芸術・能とは?その歴史は? 写真:能 世界最古の演劇芸術・能の起源は6、7世紀ごろ、中国大陸から日本に流入した芸能が素地となっています。 長い年月をかけてさまざまなお囃子や踊り、舞が混ざることで今日の能が形成されました。 長い歴史の中には存亡の危機もありましたが、その度に能を愛する人たちと日本の古典芸能として後世に伝えようとする人たちの努力により、今日まで脈々と受け継がれてきたのです。 これらは動画では0:45から紹介されています。 世界最古の演劇芸術・能の魅力 写真:能・鼓 能では、演者がいかに主人公になりきってストーリーを演じきれるかが重要です。 動画では、1:38から、能楽師の浅見慈一さんにより能の魅力が紹介されています。 伝統芸能の動きには「型」があります。 能も例外ではなく、演技はすべて決められた「型」から構成され、決められた所作があります。 5:02からは「後見」「地謡」「囃子」などの舞台や音楽についても詳しく紹介されています。 世界最古の演劇芸術・能の流派 画像引用 :YouTube screenshot 動画では3:45からご覧になれるように、主に能面をつけて主人公を演じるシテ方、相手役を務めるワキ方によって演じられます。 シテ方には大きく五つの流派があり、観世流、金春流、宝生流、金剛流、喜多流があります。 この五つの流派をシテ方五大流派と呼んでいます。 狂言と能の違い 写真:能舞台 狂言は能と切り離せない伝統芸能です。 能と狂言をまとめて能楽と呼ばれます。 能は歌舞劇、狂言は喜劇的なセリフのやり取りが中心です。 有名な方は、野村萬斎さんや和泉元彌さんが思いつくのではないでしょうか。 芸能文化は男性だけの職業という印象がありますが、現代では伝統文化を受け継いでおよそ200名の女性能楽師が活躍しています。 伝統芸能・能に興味が湧いたら… 画像引用 :YouTube screenshot 伝統文化は実際に劇場に足を運び、鑑賞してみるのがおすすめです。 能楽は東京、名古屋、京都などの能楽堂で鑑賞できるほか、全国各地でも鑑賞会が盛んに開催されています。 公演情報は能楽協会が発信しています。 また、伝統文化を広く普及させることを目的に、「能楽大連吟」という参加型プログラムがあります。 能に興味ある人が参加でき、数か月間「高砂」の稽古をして、謡いを披露する演目です。 伝統芸能に一般の人が参加できる貴重な機会となっています。 鑑賞が難しい場合は、謡本や能楽関連書籍から当たってみるのもよいでしょう。 能楽書林は明治40年の創業以来、伝統文化を絶やさまいと、能の普及と発展を応援し続ける伝統芸能に特化した出版社なのです。 世界最古の演劇芸術・能紹介まとめ 画像引用 :YouTube screenshot 能に限らず、伝統文化は敷居が高く感じられがちなところがあります。 しかし、仕組みを一度知ってしまえば、伝統芸能の奥深さを味わうことができます。 動画では伝統芸能を分かりやすく、コンパクトにまとめているのでぜひご覧になってみてください。 動画の7:25からは衣装の着付けと実演も紹介されているので、数百年にわたって継承されてきた日本の伝統文化を、この機会に学んでみてはいかがでしょうか。 -
動画記事 4:03
100年以上前の東京ではどのような生活を過ごしていた?大正時代の東京の貴重な映像が発見された!?
生活・ビジネス 歴史- 2.48K 回再生
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100年以上前の東京の姿を映した貴重な映像を紹介! 今回、紹介する動画は「Final A」さんが公開した「東京の昔の映像 (音声あり)」です。 みなさんは昔の東京の生活をご覧になってみたいと思ったことはありませんか? 学校の授業で教科書の写真を見たり、学んだことがあるけど、実際どのような生活をしていたのか映像で見た人は少ないと思います。 こちらで紹介する動画では1913~1915年頃(大正2~4年)の東京の様子が映し出されています。 とても貴重な映像をお楽しみください。 約100年前の東京ではどんな生活を送っていたのか? 画像引用 :YouTube screenshot こちらで紹介する映像では多くの人が着物に袴で街を歩いている様子が映し出されています。 動画では0:04からご覧になれます。 また2:59からは子供が毬で遊んでいる様子も。 当時の日本で毬は一般的な遊び道具であり多くの子供たちが日々遊んでいました。 服装も現代とは違い、和服が主流となっているのがわかるでしょう。 街にはまきや炭に「あんどん」があり、夜はそれらを使い街を照らしていました。 当時の東京の人口は約300万人。 日本全体でも5000万人程となっていて現在の日本の半分くらいの人口だと言えるでしょう。 動画の2:42からご覧になれる浅草寺の映像では昔から東京浅草は多くの人で賑わっていたことがわかりますね。 「昔の東京の映像」で映し出されている1913~1915年に起こった出来事とは? 画像引用 :YouTube screenshot 大正時代は15年間と短い時代区分ですが関東大震災があったことで有名です。 しかし、それ以外にも多くの出来事が起こりました。 特に有名な出来事としては第一次世界大戦が始まったのが1913年です。 1914年は日本初の百貨店、三越呉服店(現日本橋三越本店)が新装開店し、今ではおなじみのライオンの石像、エスカレーター・エレベーターも大きな話題となりました。 おもちゃ産業や商品開発などが盛んになり、近代化の始まりとなった頃です。 また、東京駅が開業したのも1914年。 多くの列車が東京を行き来し、駅構内は混雑していたことでしょう。 東京の歴史は? 画像引用 :YouTube screenshot 東京都の前にあった東京府誕生が1886年(明治元年)です。 そこから動画で紹介されている大正期に入り全国から人口流入が起こってきます。 明治時代に入り、農業中心から工業中心となり大正デモクラシーなど日本を始め、東京が大きく変わった時代です。 動画では人力車などで東京を移動する人も多く映されていますが、次第に自動車や電車といった交通手段へ変わっていきます。 当時は東京の水も綺麗で井戸も多くありました。 昔の東京を紹介した動画のまとめ 昔の東京の姿を見て、懐かしく思ったご年配の方の中もいらっしゃるのではないでしょうか。昔の映像は日本の歴史を知る中で興味深いものだと感じた人も多いでしょう。 もし、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒にこの動画を見たら何か面白い話が聞けたりするかもしれませんよ。 -
動画記事 2:41
東京国立博物館の歴史ロマンを感じる埴輪や土器、銅鐸や土偶の数々を要チェック!なんと12万点が収蔵されている日本最大規模の東京都台東区の博物館で新たな発見!
歴史- 105 回再生
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東京都台東区「東京国立博物館」展示の埴輪や土器の動画紹介 こちらは「brianman1955」が制作した動画「埴輪・土器・銅鐸・遮光器土偶 東京国立博物館」です。 東京国立博物館とは、東京都台東区の上野恩賜公園内にある日本最古の博物館で、かつては帝国博物館または帝室博物館とも呼ばれました。 本館や表慶館、東洋館や平成館、法隆寺宝物館、黒田記念館、旧因州池田屋敷表門(黒門)や庭園といった施設で構成されます。 東京国立博物館内では日本刀をはじめとした刀剣や甲冑、考古遺物といった国宝や重要文化財を含む美術品が展示公開されています。 その収蔵品の総数はなんと12万点近いのです。 2019年には正倉院展、高御座、ミイラなどの特別展も行われ見どころも満載です。 動画で紹介されている正装の女子とはどんな埴輪? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の冒頭から紹介されているのは、群馬県伊勢崎市豊城町横塚出土・東京国立博物館所蔵の埴輪「正装の女子」です。 この埴輪は裳状のスカートや簡袖の上着を着ており、玉類を連ねた耳飾り、首飾り、腕飾りで飾られています。 髪は島田髷を結い額に堅櫛を挿しています。 装飾されたこの埴輪は古墳時代のものと考えられる貴重なものです。 動画で紹介されている片口付深鉢形土器とはどんな土器? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の0:42から紹介されているのは、埼玉県ふじみ野市福岡の上福岡貝塚出土の片口付深鉢形土器です。 この土器は、1937年に山内清男氏によって発掘され、調査の結果縄文時代前期関山式土器と推定されています。 動画で紹介されている銅鐸とはどのようなアイテム? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の1:06から紹介されているのは、和歌山県みなべ町西本庄出土の銅鐸で、弥生時代と推定されます。 この時期の銅鐸は大型化し、吊り下げて鳴らす鐘としての機能はありませんでした。 装飾性の高い銅鐸は祭器として使われていたと考えられます。 動画で紹介されている遮光器土偶とはどんな土偶? 画像引用 :YouTube screenshot 動画の1:50から紹介されているのは、宮城県大崎市田尻蕪栗字恵比寿田出土の遮光器土偶。 縄文時代晩期には東北地方で土偶が盛んに作られたといわれます。 東京国立博物館の埴輪や土器の動画まとめ 写真:東京国立博物館 ご紹介した東京国立博物館の動画はたった2分40秒ほどですが、紹介されている埴輪や土器からは歴史のロマンが伝わってきます。 動画にある埴輪や土器以外にも、東京国立博物館の常設展や特別展などでは貴重な資料、図録、研究誌が多く展示公開され、さまざまな調査研究も進められているので、ぜひ足を運んでみましょう。 ◆東京国立博物館 施設概要情報◆ 【住所】〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9 【交通アクセス】JR上野公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分(展示を見る場合は正門より入場)。または台東区循環バス「東京国立博物館」下車。 【入館料金】一般1000円、大学生500円(※2020年4月時点) 【休館日】月曜日 【駐車場】無し 【電話番号】03-3822-1111 【公式ホームページ】東京国立博物館 https://www.tnm.jp/ 【トリップアドバイザー】東京国立博物館 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g14134278-d320638-Reviews-Tokyo_National_Museum-Uenokoen_Taito_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html -
動画記事 3:29
伝統工芸品「駿河竹千筋細工」まさに芸術品!繊細優美な竹細工を作り出す静岡県静岡市の職人の凄技を動画で!
伝統工芸 歴史 生活・ビジネス- 446 回再生
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伝統工芸品「駿河竹千筋細工」、静岡県静岡市の職人技動画紹介 こちらは、伝統工芸品を取り扱う青山スクエアによって作られた、駿河竹千筋細工(するがたけせんすじざいく)のプロモーション動画です。 駿河竹千筋細工は、竹ひごを1本ずつ組み上げる匠の技で花器や虫かご、手提げなどに仕上げていく伝統工芸です。 近年ではバッグや風鈴といったモダンなアイテムも多く作られ、人気を集めています。 今回は、文化的価値の高い日本伝統工芸品、駿河竹千筋細工について動画とともに詳しくご紹介いたします。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」の歴史 ©SUN 改変 静岡県の駿河地域には昔から良質な竹が生えていたことから、竹細工製品が生活用品として広く使われてきました。 その起源はとても古く、この地域にある弥生時代の登呂遺跡からも竹製品のザルやカゴが出土しているのだそうです。 江戸時代になると、竹工は武士の内職として定着しました。将軍職を退いた徳川家康が駿府城に住んだこともあり、駿河地区には竹細工職人による地域文化が築かれました。 駿河竹千筋細工は1976年に通産省指定伝統工芸品の指定を受けています。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」の作り方は? 画像引用 :YouTube screenshot 伝統工芸の駿河竹千筋細工の工程は大きく分けて「ひご作り」「輪作り」「編み」「組み立て」の4つです。 原料には真竹か孟宗竹(もうそうちく)を使い、これを削り分けて「ひご」を作っていきます。他地域の竹細工では平ひごを使いますが、駿河竹千筋細工は丸く削り出した丸ひごを使います。 材料になるひごを、独特の曲げの手技を使って輪のように曲げ、つないで編み上げる技法で作ります。 1人の職人が竹の削り出しから仕上げまでを一貫して行なうものが、駿河竹千筋細工の特徴です。 動画でも0:25過ぎより詳しい「駿河竹千筋細工」の制作過程が紹介されていますので、駿河竹千筋細工職人の杉山貴英さんの技をご堪能ください。 駿河竹千筋細工にはどんなものがある? 画像引用 :YouTube screenshot 駿河竹千筋細工ではさまざまな種類の作品を作り上げることができます。 おもてなしに活用できる花器や菓子器、茶托や小物入れのほか、まるで芸術品のような行灯・灯りなどの照明や風鈴・置き風鈴、虫かごなどもあります。 和の雰囲気がステキな手提げバッグも人気です。 これらの商品はamazon(アマゾン)や楽天市場などの通販でも購入することができ、お値段や料金は商品により異なりますが数千円から数万円となっています。 伝統工芸品「駿河竹千筋細工」紹介動画記事まとめ 動画でも紹介されているように、駿河竹千筋細工は職人が1つずつ手仕事で生産する昔ながらの伝統工芸品。 動画を見て素晴らしい日本文化を生活に取り入れたいと感じた方は、ぜひ伝統工芸品である駿河竹千筋細工の製品を購入してみてくださいね。 お土産やプレゼントにも喜ばれると思います。 【公式ホームページ】駿河竹千筋細工みやび行燈 http://miyabiandon.shop-pro.jp/ 【公式Hホームページ】駿河竹千筋細工「静岡竹工芸協同組合」 http://www.takesensuji.jp/ 【公式ホームページ】伝統工芸青山スクエア https://kougeihin.jp/ -
動画記事 4:59
安土城は織田信長が天下統一を目指して建てた絢爛豪華な城!戦国時代の名武将の夢と野望が詰まった滋賀県近江八幡市にある幻の城の謎に迫る!
歴史- 298 回再生
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滋賀県近江八幡市「安土城」や織田信長について解説する動画紹介 こちらで紹介する「trocken ab」が制作した「幻の安土城 HD版」は、戦国時代の歴史で最も代表的な城であった安土城をCG再現した動画です。 動画で紹介されている安土城は、日本で2011年に放送された大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』で多くの方に知られています。 お江(ごう)の伯父である織田信長の居城だった安土城は、これまで数々の歴史ドラマの舞台となってきました。 現在は存在しない安土城は、かつては絢爛豪華な城であったと伝わっています。 動画で紹介されている安土城の歴史とは? 写真:安土城跡 地下1階、地上6階、五層七重の安土城は1576年(天正4年)から4年かけて、琵琶湖の近くにある安土山に築城されました。 岐阜城よりも京都に近い安土城は、織田信長にとって天下布武(てんかふぶ)の象徴でした。 その築城には羽柴秀吉(豊臣秀吉)も関わったと言われています。 しかし、築城から2年後の天正10年に織田信長の家臣明智光秀による本能寺の変のあとに、延焼で焼失してしまいました。 織田信長の居城跡である安土城跡は、現在国指定の特別史跡となっています。 また、琵琶湖国定公園第一種特別地域としても保護されます。 安土城の紹介は動画の0:24よりご覧なれます。 動画で紹介されている、安土城の調査事業とは? 写真:安土城址 黒金門跡 平成元年から特別史跡安土城跡調査整備事業として、石垣の復元や発掘調査が始まりました。 動画の0:47からご覧なれる安土山南山裾からは、かつて安土城大手口が一望できました。 また、安土城には東虎口、西虎口といった出入り口もあったことが分かり城の全貌が少しずつわかってきました。 現在安土山には他に、仁王門や三重塔といった遺構も残っています。 動画で紹介されている安土城の遺構や、織田信長の思いとは? 写真:安土城址・伝羽柴秀吉邸跡 安土城の記録によると、現存当時は道々橋口(どどばしぐち)から尾根道を通り、黒金門を通るルートで安土城の二の丸、三の丸、本丸、天主に行くのが一般的でした。 天皇を迎えるための大手道という道も現在は復元されています。 復元された大手道は動画の1:57よりご覧になれます。 二の丸には豊臣秀吉が織田信長の遺品を奉った信長廟があります。 動画の3:45から紹介されている本丸の形式は京都御所の清涼殿と酷似しています。 織田信長は、天皇を迎えるにふさわしい名城として安土城を作ったのです。 安土城と織田信長について解説する動画まとめ 写真:綺麗な青空と琵琶湖 安土城跡があるのは、現在の滋賀県の近江八幡市です。 動画で紹介されている安土城へ観光に出かけるのなら、安土城郭資料館や安土城考古資料館、安土城城下町へも足を運んでみましょう。 安土山にある総見寺では御朱印や御城印を授かることもできますよ。 ◆安土城 概要紹介◆ 【住所】滋賀県近江八幡市安土町豊浦 【交通アクセス】JR安土駅より徒歩25分、名神竜王ICから車で20分 【見学時間】9:00~16:00 【入山料】大人700円、子供200円 【駐車場】あり(無料) 【公式ホームページ】安土城跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/831 【トリップアドバイザー】安土城跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1023564-d1424361-Reviews-Azuchi_Castle_Ruins-Omihachiman_Shiga_Prefecture_Kinki.html -
動画記事 3:55
日本の建築史に名を残す美しき建造物、東京都台東区の「旧岩崎邸庭園」。日本の近代建築文化はここから始まった!
芸術・建築物 観光・旅行- 119 回再生
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東京都台東区にある「旧岩崎邸庭園」とは? こちらの動画「旧岩崎邸庭園 - 地域情報動画サイト 街ログ」で紹介されている旧岩崎邸は今から120年以上前の1896年(明治29年)に三菱創設者の岩崎久彌の邸(やしき)として建造された木造のヨーロッパ式邸宅です。 戦後GHQの指導による財閥解体で、岩崎家本邸は接収され、多くの邸と庭を失いましたが、その後日本政府に返還され、現在は洋館(本邸)と撞球室(ビリヤード場)、そして和館の3棟が残され、国の重要文化財に指定されています。 設計は英国人のジョサイア・コンドルによるもので、地下室付き木造2階建の本格的な洋館は非常に珍しく、その後の近代日本住宅にも大きな影響を与えたと言われています。 旧岩崎邸庭園全体が都立庭園として解放されていて、カフェも併設されているのでランチタイムや桜・紅葉の時期には多くの来園客で賑わっています。 瀟洒な西洋木造建築はその見た目の美しさから、多くのドラマや映画の撮影にも利用されています。 旧岩崎邸庭園の見どころは? 画像引用 :YouTube screenshot 旧岩崎邸庭園の見どころは一言では語り尽くせないほどたくさんあります。 開国直後の明治時代の富裕層を代表する和洋折衷の邸宅建築は現代の視点でもとてもモダンな作りで、内部に入るとすぐに目に付く末端にツルを巻くような装飾が施された木造の柱はジャコビアン様式といい、19世紀にイギリスで流行したデザインです。 こちらは動画の1:10よりご覧になれます。 また、離れの木造の撞球室は当時の日本では珍しいスイスの山小屋風のデザインで、岩崎久彌が常用していた和館には日本画の大家橋本雅邦の屏風絵などで彩られています。 撞球室は動画の1:58より、和館は動画の2:33よりご覧になれます。 そして旧岩崎邸庭園最大の見どころは芝庭一面を彩るバラ園でしょう。 秋にはオータムフェスティバルが開かれ、バラの甘い香りが旧岩崎邸庭園いっぱいに広がり、多くの来園者を魅了します。 一方落ち着いた日本庭園には庭石や灯籠、築山など伝統的な日本の庭園が開け、お茶席では美しい旧岩崎邸庭園の四季折々の自然を楽しみながらお茶と和菓子をいただくことができます。 旧岩崎邸庭園の激動の歴史について 画像引用 :YouTube screenshot 旧岩崎邸(茅町本邸)のある東京都台東区池之端一丁目は江戸時代、越後高田藩江戸屋敷があった地域です。 その後、明治維新を経て明治4年の廃藩置県によって高田藩は解体され旧舞鶴藩知事・牧野弼成の持ち物になったのですが、財閥だった岩崎弥太郎によって買い取られ三代目当主の岩崎久彌が現存する岩崎邸を建築しました。 戦後GHQにより財閥が解体された後は政府が所有し、東京都が管理しています。 まさに激動の歴史を経て今に至るモニュメントなのです。 旧岩崎邸庭園のまとめ 写真:旧岩崎邸庭園 近代建築の礎となった旧岩崎邸庭園公園ですが、2020年4月現在、芝庭の修復工事が行われていて、一部立ち入り禁止区域となっています。 見学等は行われていますので、旧岩崎邸庭園で日本の歴史に触れてみてはいかがですか。 日本の建築史に残るこの旧岩崎邸庭園より日本の近代建築文化は始まったのです。 ◆旧岩崎邸庭園 施設概要紹介◆ 【住所】〒110-0008 東京都台東区池之端1丁目3-45 【交通アクセス】東京メトロ千代田線「湯島」駅から徒歩3分(不忍池から徒歩10分程度) 【入館料金】一般400円、65歳以上200円、小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料、団体割引など各種割引料金あり 【営業時間】9:00~16:30 【休園日】年末年始 【駐車場】無し 【電話番号】03-3823-8340 【公式ホームページ】旧岩崎邸庭園|公園へ行こう! https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html 【トリップアドバイザー】旧岩崎邸庭園 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1066461-d321036-Reviews-Kyu_Iwasakitei_Teien-Taito_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html -
動画記事 1:10
縄文時代の暮らしが体験できる長野県諏訪郡の井戸尻遺跡!集落遺跡で発掘された竪穴式住居を空から見て当時の暮らしを想像してみよう!
歴史- 211 回再生
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長野県諏訪郡「井戸尻遺跡」竪穴式住居の動画紹介 こちらは「Solar Kanki」が制作した「井戸尻遺跡 竪穴式住居」は、長野県諏訪郡富士見町にある井戸尻遺跡の竪穴式住居をドローンにより上空からの撮影された動画です。 国の史跡を美しい映像でご覧になることができます。 自然の緑と茅葺屋根の色のコントラストも美しく、歴史好きや自然の映像が好きな人には必見の動画になっています。 こちらの記事では、竪穴式住居がある井戸尻遺跡の魅力を紹介します。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡とは 写真:井戸尻遺跡 竪穴式住居がある長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡は、江戸時代の集落遺跡で歴史好きには必見のスポット。 1966年に国の史跡(井戸尻史跡公園)に指定されています。 史跡指定を受けた際の石碑も公園内にあります。 井戸尻遺跡の周辺には八ヶ岳の湧き水を求めて作られた多くの遺跡があります。 今までは縄文時代は狩猟採集をしていると言われていました。 それが、長野県諏訪市出身の考古学者により、縄文時代の狩猟採集に異議を唱えたのです。 井戸尻遺跡を始め、中央高地の縄文遺跡の研究から、縄文時代も田畑を耕して生活していたのではないかと新しい説を唱えています。 竪穴式住居とは 画像引用 :YouTube screenshot 竪穴式住居とは、地面に円形や方形の穴を掘り、複数の柱を立て、骨組みを造り、土や葦などで屋根や外壁を造った建物のことです。 風情のある外観は、見ているだけで心が和やかになります。 こちらの動画の0:06よりご覧になることができます。 ヨーロッパでは中石器時代から竪穴式住居の形態の建物が出現しています。 新石器時代になると世界各国でこのような住居で生活するようになり、普及していきます。 日本では旧石器時代後期から造られ始めたと言われています。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡の見どころ 画像出典 :【公式ホームページ】富士見町 井戸尻遺跡のすぐ近くには、多数の重要文化財を展示している施設の井戸尻考古館・民俗資料館があります。 井戸尻や曽根などの出土土器や藤内遺跡出土品、坂上遺跡出土品、水煙渦巻文深鉢など約2,000点の文化財である出土遺物が展示されています。 井戸尻遺跡で発掘された住居跡地から竪穴式住居も移設され、細部まできちんと再現されています。 竪穴式住居も内部を見学することもでき、昔の生活に欠かせなかった囲炉裏を見ることができます。 また、縄文時代の住居、食物、衣類、土偶なども展示されています。 鑑賞していると、当時の生活を想像することができますよ。 古代グッズ作り手作り弓矢体験などのイベントも過去には開催されていました。 遺跡周辺は自然が豊富で、田んぼ、蓮、スイレン、アヤメなどを見ることができ、日本らしい風景を見たい人にもおすすめの場所です。 井戸尻遺跡内にある竪穴式住居も美しい緑の中にあり、インスタ映えスポットです。 こちらの動画の0:06よりご覧になることができます。 竪穴式住居がある井戸尻遺跡の記事のまとめ 写真:井戸尻遺跡の水車 「Solar Kanki」が制作した、「井戸尻遺跡 竪穴式住居」は、昔の住居である竪穴式住居を空撮している動画です。 井戸尻史跡公園の美しい映像に心奪われるはずです。 井戸尻史跡公園内には水車小屋や田んぼなど心癒される風景が広がっています。 気になる方はチェックしてみてください! ◆井戸尻遺跡・井戸尻考古館 施概要紹介◆ 【住所】長野県諏訪郡富士見町境7053 【交通アクセス】JR中央本線信濃境駅下車 徒歩15分。 【入館料金】一般大人300円、一般小人150円(2020年4月時点) 【営業時間】9:00~17:00 【休館日】月曜日・祝日の翌日・年末年始 【駐車場】有り。普通車40台 【電話番号】0266-64-2044 【公式ホームページ】井戸尻考古館ホームページ https://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html 【トリップアドバイザー】井戸尻遺跡 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1120579-d12572092-Reviews-Idojiri_Archeological_Site-Fujimi_machi_Suwa_gun_Nagano_Prefecture_Koshinetsu_C.html