[画像1]【宮崎県 五ヶ瀬町 伝統芸能】鞍岡棒術鞍岡棒術の流派は「大車流」で、神陰流四天王の一人丸目蔵人(肥後相良藩)が開いた兵法とされ、心影大車無雙流とも呼ばれ、文書には江戸前期に鞍岡についての初見もあるが、
[画像2]【宮崎県 五ヶ瀬町 伝統芸能】鞍岡棒術鞍岡棒術の流派は「大車流」で、神陰流四天王の一人丸目蔵人(肥後相良藩)が開いた兵法とされ、心影大車無雙流とも呼ばれ、文書には江戸前期に鞍岡についての初見もあるが、
[画像3]【宮崎県 五ヶ瀬町 伝統芸能】鞍岡棒術鞍岡棒術の流派は「大車流」で、神陰流四天王の一人丸目蔵人(肥後相良藩)が開いた兵法とされ、心影大車無雙流とも呼ばれ、文書には江戸前期に鞍岡についての初見もあるが、

【宮崎県 五ヶ瀬町 伝統芸能】鞍岡棒術

鞍岡棒術の流派は「大車流」で、神陰流四天王の一人丸目蔵人(肥後相良藩)が開いた兵法とされ、心影大車無雙流とも呼ばれ、文書には江戸前期に鞍岡についての初見もあるが、以後は馬見原、椎葉村尾前を経て、場末に再び鞍岡の人に伝授されています。

鞍岡棒術に用いる棒は2種類で、長棒6尺2寸(約188cm)、半棒3尺(約91cm)です。

防御の型が原則で、長棒と半棒との打ち合い、棒と太刀との打ち合い等30数種の型があり、太刀を使用する型を通常「白刃」と称しています。

鞍岡棒術保存会では、祇園神社の夏の例大祭で「白刃」を奉納し、鞍岡中学校の生徒への伝承指導を行っています。

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2024年7月5日
【宮崎県 五ヶ瀬町 伝統芸能】臼太鼓踊り 祇園神社の秋の大祭に踊る臼太鼓踊りは、古くは陰暦の9月9日に奉納されていたので「くんち踊り」ともいわれ、400年以上踊り継がれています。 京を追われ、流浪の当否を続けた平家一族が、秘境椎葉の山里に至る途中、鞍岡の里で華やかな京の都をしのびつつ踊ったのが始まりであると伝えられています。 優雅さの中に凛とした立ち振る舞いを見せる踊りには、都の人々の心が偲ばれ、毎年祇園神社の秋の例祭に奉納されます。 <伝説的な事柄>-------------------------------------------------------------------------------------- 文治元年(1185)、源平争乱の末期、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の残党は、源氏の追討を逃れて奥地へ逃避を続け、鞍岡の里にたどりつき、椎葉山へと向かう道中、深山悪路のために足弱な者、女子ども等を鞍岡波帰附近の山中に残して行った。 元久2年、鎌倉幕府は平家残党の追討の手をゆるめず、那須大八郎宗久に九州山地に逃れた一族追討を命じた。 命を受け、椎葉へ向かうべく鞍岡の里に入った那須大八郎の一行は、鞍岡に残っている平家落人の戦意のないことを悟り、長旅の慰安をかね呉越同舟の踊りを催し、勝者の奢りを捨て、敗者への哀れみをなしたという。 ‐--------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 上記に記した時の踊りが、鞍岡の臼太鼓踊りの基礎となり、時代とともに栄枯盛衰、幾度か転々の後、現在の形となって残っているといわれています。 太鼓や鉦に合わせて踊る姿は、優雅さの中に凛とした立ち振る舞いを見せています。 近年は祇園神社臼太鼓踊り保存会が五ヶ瀬自然学校の子どもたちや氏子の協力で踊りを継承しています。 臼太鼓踊りの日程… 毎年10月9日