[画像1]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像2]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像3]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像4]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像5]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像6]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像7]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像8]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像9]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
[画像10]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内
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[画像12]かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内

かつて「日本一の巫女村」といわれ、諸国を巡業して歩いた”ノノウと呼ばれる梓神子(巫女)”が集住した東御市祢津地区で「座談会」や「歴史散歩ツアー」があった。

地元住民有志の「西宮里づくりの会」が開き、県内外から歴史好きや観光関係者ら15人が参加した。

「春になると、ののう小路から神事舞太夫に率いられて数人から数十人の巫女の集団が巡業に旅立った。巡業先の村で悩みや苦しみ、願いなど占った」と話すのは同会幹事の篠原博文さん。

神事舞太夫の「末裔家(西宮夷神社社主)」で、家には古文書が伝わり、各地から訪れる研究者やノノウを慕って訪れる人を受け入れ地域の歴史案内をしている。
4年前にプレで歩き巫女ツアーを開き、今回で2回目。
今年3月には地元の子どもらにも知ってほしいと「ノノウの絵本」を発行した。

祢津公民館で行った座談会で、篠原さんは「ノノウとともに、視野を広げて祢津の歴史文化にも触れたい」とあいさつ。

武田信玄ら戦国武将との関わり合い、一帯は真田氏、山伏や祢津のノノウといった人たちが活躍しながら歴史を紡いできたことなど説明。
また、祢津の風土性について「女性に対してやさしいというか、女性に関するものが多く残り、多様な生業があった」と話した。

参加した戸倉上山田温泉「旅館亀清」若旦那のタイラー・リンチさんは「欧米人からしたら非常に興味深い。ノノウさんたちは、くノ一の関わりがあれば聞いてみたい」。

篠原さんは「巫女さんが諜報活動のつながりがどの程度あったのか、女忍者としての動きをしているという史料は出ていない。全国を巡業し、いろんな情報を見たり聞いたりできる立場にいたので、それをどう活用したかしないかは想像の世界」。

信州とうみ観光協会事務局長の早川一夫さんは「祢津の文化を知ってもらえたら。集落の道とかは狭い昔のまま残っているので、生活感も感じられると思う。西宮と東町とで互いに競い合っている文化もある」と話した。

歴史散歩ツアーは篠原さんを中心に、定津院の五十嵐弘暁住職や早川さんら地元関係者の案内で祢津の歴史文化を辿った。

ノノウの墓や屋敷跡、ののう小路、西宮夷神社などノノウにまつわる場所を回り、篠原さんは「この井戸(屋敷跡)で冷水を浴びて身体を清めた」。西宮夷神社で「お爺さんが御札を刷っていたのを中学生の頃まで見ていた」。
金井小路で「ここから御射山が見える。御射山祭を金井氏が仕切り、おもてなしをする中に巫女や神主がいて、御射山で獲った鹿を神に捧げた」など語った。

五十嵐住職の案内で祢津氏が開いた定津院を見学。
祢津氏の墓所では、ルーツや鷹匠の宗家としての顔、諏訪信仰の鷹狩祭祀を司ったことなど学んだ。
このほか、求女川、お姫尊の巨石、西宮歌舞伎舞台や東町歌舞伎舞台なども巡った。

神奈川県横浜市から参加し、巫女や作家活動を行っているカストロ神楽まゆみさんは「2年前から祢津に興味を持って頻繁に来ていた。すごく歴史が深く、巫女さんがここで生活して全国をまわっていたのがよくわかる地域なので、とても勉強になる」と話した。

長野市から参加した山崎香織さんは「4年前に歩き巫女ツアーに参加して以来、歩いた。説明を聞ける良い機会なので、これからも続けてほしい」。

上田市菅平高原から参加した瀧澤容さんは「仲間と歩き巫女のツアーを計画していて、巫女さんの格好をして思いを馳せながら歩いてみたい」と話していた。

7月7日には、今回参加したメンバーが中心となり、祢津歴史散歩「歩き巫女ツアー」を行う。
瀧澤さんの案内で伝統文化研究会グループ、タイラーさんの案内で「忍者プロジェクトグループ」が祢津を巡る予定。


<歴史メモ>
◇ノノウの諸国巡業 庶民の心の支え
ノノウは、神と人の間を仲立ちする媒霊的存在として、梓弓を鳴らし神託を伝える「口寄せ」などを行った。
口寄せは戦国時代から江戸時代の庶民の精神を支えていた。武将もノノウの口を借りて神から勝利の予言を得て、死の恐怖を和らげ勝利の確信を抱かせた。
江戸期は最も多くのノノウが祢津村に暮らし50戸ほどのノノウ屋敷があった。江戸幕府の寺社奉行の認可のもと、梓神子を統括した習合神道の神事舞太夫とノノウはキャラバンを組み、諸国を自由に巡業できた。
明治になると新政府の宗教政策で活動を禁止され、多くが廃業、移住するなど新たな生活の道を求めた。

◇ノノウの源流 祢津の歴史的土壌
なぜ、祢津村に巫女たちが集住したのか、東部町誌や祢津誌などによると、祢津の地は古来から女性や神事にまつわる地名や名残があり、巫女を受け入れる土壌があったのではと考察されている。
ノノウの始原を思わせる伝承や祢津の歴史的風土をいくつか時代順に挙げる。
▽古墳時代から奈良時代にかけて中央の勢力が進出し、この地には古代中央の文化が盛んに押し寄せた
▽古代に残る地名の変化(海野郷→嬢里→童女郷→海野庄)の「嬢」と「童女」は古代における「遊部」に深い関係をもった土地柄を示す地名とされ、神楽舞を行い神霊を遊ばせる鎮魂の神事にたずさわった巫女たち・遊部の姿が浮かぶ
▽平安末期から江戸時代初期の長きにわたり祢津の地を本領とした滋野一族祢津氏は東国随一の鷹匠として名を馳せ、鷹匠たちの間には多くの秘伝があり、その中に巫祝性がみられる。
▽祢津氏は中世諏訪と強く結びつき、旧祢津村に残る地字「御射山」や岩井堂、金井小路などは、祢津氏が諏訪の神氏の一族として行ったであろう御射山神事(狩猟神事)の面影を伝える。御射山は狩場で、岩井堂は神祭事の場(祝堂)を示す名残。金井小路は、神に供える料理など作った鹿人職、祭事で神楽を奉納したり神のお告げを伝える大市職をつとめた金井氏一族の居住地を伝える地名か。 ▽戦国時代には武田信玄からの朱印状で甲斐と信濃の両国の神子(巫女)頭に任じられた望月千代女が縁を頼って祢津村に土着した。
▽江戸時代に入り、祢津は旗本領だったので幕府の後ろ盾があり、ノノウたちが活動しやすかった―など。

東信ジャーナル電子版2025-6-29 12:32 テーマ:とうみニュースより引用

日本一歩き巫女の里 "祢津ののう"の絵本
企画・発行 西宮里づくりの会(ののう研究部会)
文:篠原博文 絵:丸山ひとし
お問合せは電話:090・8509・5859(篠原さん)