[画像1]【自転車日記】今朝、窓口を開けるのと同時にインバウンドのお客様が2名レンタサイクルを借りにこられました。三方五湖を走りたいというので、元々予定していた観光協会会員向けのサイクリングに入ってもらいました
[画像2]【自転車日記】今朝、窓口を開けるのと同時にインバウンドのお客様が2名レンタサイクルを借りにこられました。三方五湖を走りたいというので、元々予定していた観光協会会員向けのサイクリングに入ってもらいました
[画像3]【自転車日記】今朝、窓口を開けるのと同時にインバウンドのお客様が2名レンタサイクルを借りにこられました。三方五湖を走りたいというので、元々予定していた観光協会会員向けのサイクリングに入ってもらいました

【自転車日記】
今朝、窓口を開けるのと同時にインバウンドのお客様が2名レンタサイクルを借りにこられました。
三方五湖を走りたいというので、元々予定していた観光協会会員向けのサイクリングに入ってもらいました!
みんなでゆっくり走り自然を満喫しながらのサイクリング。
途中、タイヤの空気が抜けてる! と騒いでいたら、近くの方が空気入れ貸してくれて助かりました。
すでに日本に何泊もされていて、あちこち行っておられるようでしたが、三方五湖はよかったと大変喜んでおられたので、いい思い出になったのではないでしょうか。

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2024年6月27日
佐柿国吉城 1、“難攻不落”朝倉勢の侵攻を食い止めた堅城 2、発掘調査で姿を現した“石垣の城” 3、四季折々の“城跡の彩り”と、城跡から見える“若狭の絶景” 国吉城は、美浜町東部の「佐柿」にあった山城で、戦国時代は若狭国と敦賀国の国境を守る「境目の城」でした。 若狭国守護大名武田氏の重臣、粟屋越中守勝久が、弘治2年(1556)に古城を利用して築いたと伝わります。 国吉城の勇名を轟かせた「国吉籠城戦」は、永禄6年(1563)、越前朝倉氏の侵攻を撃退したのが始まりで、朝倉氏が滅亡する天正元年(1573)まで、ほぼ毎年襲来する朝倉勢を、粟屋勢が国吉城に立て籠もって迎え撃ち、一度も落城しませんでした。 この戦いの様子は、粟屋勢に参加した地侍、田辺半太夫安次の昔語りが、軍記『国吉籠城記』として世に広まりました。 因みに、城は当時「佐柿城」と呼ばれていましたが、『国吉籠城記』の広まりで「国吉城」が定着してしまいました。  元亀元年(1570)には、朝倉氏攻めに向かう織田信長率いる3万の軍勢を迎え入れました。 木下藤吉郎(豊臣秀吉)や徳川家康、そして今年の大河ドラマの主人公、明智光秀らと共に国吉城に入城した信長は、籠城戦を戦った勝久と地侍たちと謁見し、褒め称えたと『国吉籠城記』には記されます。 その後、天正11年(1583)には豊臣秀吉の家臣、木村常陸介が城主となり、城下町を開きました。 現在の佐柿集落の起源であり、江戸時代は丹後街道の宿場として繁栄しました。 町並みには当時の面影が色濃く残ります。  城は、江戸時代前半の寛永11年(1635)に京極氏に代わり酒井忠勝が小浜藩主となった折に廃城となり、代わって城跡の南に佐柿町奉行所が建てられました。 その跡地には、平成21年(2009)に若狭国吉城歴史資料館が開館しました。 昭和58年(1983)に町史跡に指定され、郷土の歴史遺産である国吉城址を保存し、活用を図るため、平成12年度(2000)から始まった発掘調査では、朝倉勢の猛攻を退けた戦国期山城がそのまま残ると考えられていましたが、調査の結果、大規模な礎石建物群や、一様に上半分を崩し、下半分を埋めた破城痕跡を示す石垣、 山上本丸北西虎口の巨大な礎石と鏡石、本丸南隅土壇上の建物跡(天守か)などが発見され、国吉城のイメージを大きく覆しました。 これらの遺構は、豊臣大名の木村常陸介が、新領主の力を誇示するよう大改修をした結果とみられますが、資料にはありませんでした。 発掘調査によって始めて判明した「真実」なのです。 平成29年(2017)、公益財団法人日本城郭協会より“続日本100名城”に選定され、春には城下町佐柿に咲く桜と城跡を彩るシャガ、夏には葉が白く染まる半夏生の群生、秋には青蓮寺や徳賞寺の紅葉、冬は一面の銀世界と、四季折々の彩りを見せながら多くの見学者を出迎えます。 本丸までは遊歩道が整備されていますが、九十九折れの坂道は終わりが見えず、実際に“難攻不落”を体感する感覚になります。 しかし、ようやく辿り着いた本丸跡では、雄大な若狭の自然と美しい風景が皆様を出迎えてくれ、ここまでの苦労を忘れさせてくれるでしょう。 佐柿国吉城 福井県三方郡美浜町佐柿 お問合せ 若狭国吉城歴史資料館(電話0770-32-0050)