長野県 塩尻市観光協会

15 時間前(編集済み)
[画像1]【郷原宿 -ごうばらじゅく-】 所在地:塩尻市広丘郷原郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場です。 慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善
[画像2]【郷原宿 -ごうばらじゅく-】 所在地:塩尻市広丘郷原郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場です。 慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善
[画像3]【郷原宿 -ごうばらじゅく-】 所在地:塩尻市広丘郷原郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場です。 慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善

【郷原宿 -ごうばらじゅく-】 所在地:塩尻市広丘郷原

郷原宿は、善光寺街道が中山道の洗馬宿で分かれて最初の宿場です。慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善光寺街道(北国脇往還)を整備したときにできました。
すでに存在していた集落が宿になったのではなく、郷原の元の集落は奈良井川の東岸の上野地籍にあったが、宿駅の整備に伴い、同じ川の西岸の住戸地籍にあった堅石集落とともに、元和5(1619)年ころ現在の場所に移して宿づくりがされました。

○郷原宿の見どころ
屋敷割りがよく行われ家々の間口は5~6間と広く、妻入りの本棟造りで雀おどしがついた切り妻が街道に面しているのが特徴です。
また、街道と家の間に前庭があり、樹木が植えられて美しい街並みとなっており,各家には屋号が表示されています。民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦氏は随筆の中で郷原宿の美しさを「宿場全体が見事な一個の作品だと」絶賛してます。

宿場の北側には、明治13(1880)年に明治天皇御巡幸のとき御小休所となった郷福寺があります。

中山道と市内5つの宿場町についての記事はコチラ↓

長野県 塩尻市観光協会
2025年10月23日
【中山道と塩尻市内5つの宿場町】

中山道には、江戸日本橋から京都三条大橋までの間に69の宿場があります。
塩尻市域は、東海道と比べると山坂は多いものの、川留めでの長逗留がなかったため、予定通りの行程で通行ができました。
塩尻市域の中山道には塩尻宿、洗馬宿、本山宿、贄川宿、奈良井宿の5つの宿場が置かれました。

①塩尻宿 -しおじりじゅく- (江戸日本橋から30番目)
塩尻宿は松本領と諏訪領の堺で米殻類や禁制品を改める「口留番所」が設けられ参勤交代などで使用する本陣や脇本陣が設けられ、旅籠屋の件数は幕末には中山道二番目、信濃では一番の数でした。

②洗馬宿 -せばじゅく- (江戸日本橋から31番目)
中山道と善光寺街道の追分に当たる宿場です。 洗馬宿には中山道に3つしかない貫目改所の1つが設けられました。 昭和初期の大火で宿場の面影はほとんど焼失してしまいましたが、追分に当たる場所には常夜灯の石燈篭が残されています。

③本山宿 -もとやまじゅく- (江戸日本橋から32番目)
蕎麦切り発祥の地と言われる本山宿。 木曽路の入り口、松本平の出口として栄えました。 本陣は皇女和宮が徳川家茂に嫁す際や、明治13年の明治天皇御巡幸の際の宿泊所となりました。

④贄川宿 -にえかわじゅく- (江戸日本橋から33番目)
贄川宿は木曽路十一宿の入口です。 中山道の交通の要衝として贄川関所がおかれ、宿泊業や遠隔地商業で発展しました。

⑤奈良井宿 -ならいじゅく- (江戸日本橋から34番目)
「奈良井千軒」と謳われ賑わっていた宿場。 今当時の面影を色濃く残し、現在は人気の観光スポットとして多くの人が訪れています。
前のSNS投稿
21 時間前
【本山宿 -もとやまじゅく-】 所在地:塩尻市宗賀本山 木曽路の入り口、松本平の出口として栄えました。 出格子の二階建ての家が立ち並び、今でも当事の面影が色濃く残っており、蕎麦切り発祥の地として紹介されました。 慶長19(1614)年に、塩尻・洗馬・本山の3宿が新しい中山道の宿に決まったが、塩尻宿や洗馬宿のように隣村から人々を移動させて造った宿ではなく、中世からの集落でした。 江戸から数えて32番目の宿場で、洗馬宿へ30町、贄川宿へ2里の位置にあります。 宿は南から上町・下町に区分され、中央には本陣・脇本陣・問屋場がありました。 宿南に八幡宮、長久寺、常光寺があり、宿北には諏訪神社、奈良井川の対岸には池生神社が祀られていたが、一部は廃寺となっています。 また、本山は尾張藩木曽との境であったので宿南には口留番所が置かれ、女改めや材木改めなどが行われました。 天保14(1843)年には家数117軒で旅籠は34軒あり、宿の屋敷割りは、洗馬宿の3間間口に比べて4~5間の家が多く見られます。 何回も大火に見舞われたが、現在残る建物は幕末から明治時代の建築で、道に面して平入り出桁造り、千本格子の2階部屋など宿場時代の面影がよく残っています。 なかでも明治以降前後に建てられた秋山家(若松屋)・田中家(池田家)・小林家(川口家)の3軒の住宅は国登録有形文化財に指定されています。 本陣・小林家は文久元(1861)年に仁孝天皇の皇女和宮が徳川家茂に嫁す際や、明治13年の明治天皇御巡幸の際の宿泊所となりました。 各家には屋号が付けられ、当時をしのぶことができます。 また、名物は「そば」で、宝永3(1706)年の雲鈴の隋筆[風俗文選]にそば切り発祥の地が本山であることが記載されています。 史跡では、宿の東裏の小高い山に木曽氏の一族・本山民部が守ったという本山城跡、雨乞い・養蚕・眼病治療の霊験ありとされ多くの絵馬が奉納され、社叢が塩尻市の天然記念物になっている池生神社(池の権現)、道祖神や庚申塔文字碑などが並ぶ下町石造群などがあります。 中山道と市内5つの宿場町についての記事はコチラ↓